行藤氏問ふ。爰に不審あり。其妻子を帯して行ひがたきをおこなふを道とすべし。教は五倫を専らにして、我においては五倫を廃(ス)つるはいかん。
先生答へて曰、しかり。されども其許(ソコモト)のいへる所は、顔子(ガンシ)のごとき地位なり。子路、冉求(ゼンキュウ)の賢徳あるも仕へを先として、冉求は季氏の無道に率(ヒカ)れ附益し、子路は義を見あやまり、非義に與(クミ)し戦死したまふ。是顔子に及ばざる故なり。いはんや我ごとき者、何ぞ顔子の行ひに合(カナ)はんや。此故に独身にて居れり。我兄弟あり、甥あれば、先祖の祭りを廃つるにもあらず。我が子孫を繁昌し、吾を祭られんこと、しひて願ふ所にあらず。愚意(グイ)は一身をすててなりとも、道の行はれんことを思ふ。是我願なり。
先生ある夏の頃、河内(カワチ)石川郡白木村、黒杉政胤(マサタネ)宅へ講釈に行きたまひしに、籬(マガキ)のほとりに流水をしかけありしを見たまひて、此流水は常にあるにやと尋ねたまひければ、政胤仰せのごとく常にある流水なりと答ふ。先生曰、今は農家に水を求むる時なれば、尋ぬるなりと仰せられけり。是は先生のため暑を避けんとて態(ワザ)と水をせき入れしやらん。左あれば農の障とならんことを恐れ尋ねたまひしなり。旅宿より講席へ行きたまふ道にて、田の草を見たまひ、麻上下(カミシモ)着しながら、泥土の中へ手を入れ草を取りたまひて、此草は糞(コヤシ)を奪ふてあしき草なりと、門人へしめしたまへり。
其辺の人先生の講釈を聞きてより、家業を励み、勉むるやうになりしとなり。
講釈終り政胤祝儀として、白銀壱封進上しけるに、先生受けたまはず、再三これを強ゆれども受けたまはずして曰、今度の往来(ユキキ)且滞留中の諸入用、そこもとよりせらるる上に、又祝儀とて請(ウク)べきやうなしとて、終に受けたまはざりけり。
京都の門人等、先生を迎ひに行き、講釈終りし日着しければ、政胤先生へ請ふて曰、迎ひに来りし同門の者(モノ)、当地はじめてのことなれば、一両日も滞留したまへかし。近辺の名所古跡をも、見せたしと申しければ、先生迎へに来りし門人へ、政胤志のごとくすべしと仰せられければ、門人答へていはく忝(カタジ)けなく候へども、遊山の望もなし、唯帰京したまはんことを希ふと申しける故、翌日早朝に発足したまへり。