またこのころ、漬物業者にのみださずに、自家で大根を干して11月から12月ごろ市場に出すこともあった。たくわんはそれぞれの家で潰けることも多かったから、こうした出荷形態も多かった。
g. 畑作のやりがいとさつま芋の隆盛(東村山の一農家の農業の変遷)
東村山市の廻田地区における専業農家の聞き取り調査では「我が家の畑作は代々農産物が異なる。時代を見て、何が経済につながるか見定めなければならない。大変だが、やればやるほど手応えがある。」と述べられた。確かに、畑作は水田とは異なり、100年一律に同じ作物を作り続けない。作物のいや地といって、連作が効かなくなるということが一番の原因であろうが、より経済につながる作物を、他の家、あるいは他の地区より早く見つけだし、作付けをするという意気込みと実践が、世代を超えて行われているのが畑作地帯の農業の意気込みとやりがいのように感じられた。
廻田地区の大正12年生まれの専業農業者の場合、祖父の代は藍生産が中心であった。藍を収穫して藍玉にして出荷していた。やがて、アメリカからインジコが輸入されるようになると藍は人気を失っていった。父の代では、養蚕を中心にお茶もやった。養蚕は昭和恐慌のころ値段が下がったが、その後戦前・戦中も養蚕は盛んに行われた。また父は地域の人々と共に東村山市の製茶組合を結成し、製茶の機械化にも努めてきた。
戦中は供出でさつま芋もつくらされた。戦中のさつま芋は沖縄100号で、でんぷんを採ることが目的だったから味は不味かった。戦後も食糧難でさつま芋を作らされたが、農林1号が普及した。しかし量は採れるが、あまりおいしいさつま芋は作れなかった。焼き芋にはいまでも農林1号がいいと聞く。本格的にさつま芋を始めるのは昭和30年代になってからである。父から自分の代に変わる頃に養蚕もやめた。自分はさつま芋を中心に農業をやってきた。昭和30年代の後半からは耕地の半分はさつま芋を作付けるようになった。残りは大根がほとんどで、大根は畑から収穫するとそのまま漬物業者が買い取ってくれた。さつま芋の種類は金時(ベニアカ)だった。昭和30年代の終わりに、杉並の市場にもっていったところ、10キロ3,000円から4,000円の高値がついたこともあった。東村山では、その後もきんとん用に金時(ベニアカ)がよく作られ、市場でも「東村山のさつま芋」として評判がよかった。色が自然で、混ぜ物をしなくても、いい色のきんとんができると評判だった。農産物品評会ではしばしば金賞を頂いたことがある。また、茨城や神奈川の相模原などに、さつま芋の作付けの指導に招かれたこともある。麦とさつま芋を輪作で作り続けてきたが、さつま芋は土地に飽きが来たらしく最近ではいい物がとれない。現在でも5反ほどさつま芋をつくっているが、ベニアズマに種類は変わった。近くのさつま芋を作っている農家では、苗を購入するようだが、今でもヤマの落ち葉を掃いて苗床を作ってる。自分で育てた苗がいいし、発酵を終えた落ち葉(一年寝かす)はさつま芋の堆肥としてなくてはならない。