支配者層の豪族居館と一般集落の分化が見られ、一般集落は、濠や柵などの防御施設を持たず、竪穴住居や平地式建物、高床式倉庫などの組み合わせから成り立つ集落であった。鉄製農具の普及と畜力の利用による生産力が発展した時代でもあった。
図I-3-6は狭山丘陵および周辺の古墳時代に属する遺跡の分布である。古墳時代の遺跡分布の傾向としては、丘陵北側の舌状部分と、前川・北川流域の丘陵〜台地部分、丘陵南側、空堀川源流域の丘陵部分の3箇所に集中して分布している。
古墳時代の主要な遺跡として埼玉県所沢市の北秋津横穴墓群(きたあきつおうけつぼぐん)や山下後遺跡、高峰遺跡、野竹遺跡、日向遺跡など、入間市の滝入遺跡などが、また東京都瑞穂町の狭山遺跡など、武蔵村山市の吉祥山遺跡や野山第3遺跡、野山第5遺跡など、東村山市の日向北遺跡や中の割遺跡、下宅部遺跡などが確認されている。特に所沢市山下後遺跡からは2基の円墳が発見されている。
・奈良・平安時代
中央の政治体制が強固になり、大宝律令が制定された西暦710年、平城京を建設し、ここに遷都して本格的な律令制社会がはじまった85年間を奈良時代、その後桓武天皇が平安京に遷都した西暦794年から源頼朝が武家政権を立する鎌倉幕府の開幕に至る西暦1192年までのおおよそ400年間を平安時代と呼んでいる。
大宝律令によって今の東京都と埼玉県・神奈川県の一部を含む地域が「武蔵国」として任定された。地方支配のために国ごとに置かれた国府は、その近くに建立された国分寺とともに政治・文化の中心としての役割を果たすこととなった。武蔵国の国府は現在の府中市に置かれ、国分寺は現在の国分寺市につくられた。
また、武蔵国は地方行政区として東山道に所属しており、都と国府を結ぶ官道が整備された。上野国府(現群馬県前橋市)から武蔵国府を結ぶ官道を「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」といい、幅12mの直線道路が、群馬県から南下してきて、所沢市をぬけ、狭山丘陵を縦断し、東村山市をぬけて府中市へと続いていた。このルートを通じて都の仏教文化や制度がもたらされた。
国内は21の郡に区分され、狭山丘陵はちょうど「多麻郡」と「入間郡」の郡境に位置している。西暦771年には武蔵国が東海道に配置替えされるが、東山道武蔵路の重要性は変らず、交通の要所としてこの郡境の地域に影響を与えた。奈良時代末には郡境の狭山丘陵に高さ約2mの「瓦塔(がとう)」が建てられ、また平安時代の西暦833年に「悲田処」という旅人救済施設が郡境付近に設置された。
図I-3-7は狭山丘陵及び周辺の奈良・平安時代に属する遺跡の分布である。奈良・平安時代の遺跡分布の傾向としては、丘陵北側の舌状部分と砂川流域、前川・北川流域と北川上流部の丘陵舌状部分、丘陵南側の丘陵〜台地部分に分布している。