(脚本を元に音楽を創ることについて)
ストラヴィンスキーという人についてフランスの現代作曲家のブーレーズが、こんなことを言っていました。ストラヴィンスキーにとって言葉はすべてであると同時にゼロである。つまり、わかりやすくいえば、ストラヴィンスキーっていう人は言葉の持っている、ロシア語の持っている韻律ですとか、音程の関係ですとか、リズムとか、そういうものを分析して、そういうことを大切にして書いている。そういうことをやって作品をつくる。声楽ももちろんつくる。というわけですが、言葉のもっているそういう性格を音の中に写してしまうと、音が全てになってしまう。そういうことをブーレーズは言っていると思うんですね。
東京でやれることは知れたものです。束京はまぁショーウィンドウのようなもので、ショーウィンドウももちろん大切なわけですから、いろんないいものを集めて、ディスプレイしていただいて買う気を誘う。見たかったらそこで喜んだり、買ってみたり行動を起こしていただくということになるわけです。それもとても大切ですが、文化っていうのはもう少し地域社会っていうか、そこに一つの歴史というものが流れている。東京だってもちろん流れていないというわけではないんですが、非常に細分化された流れみたいになってしまったり、到底われわれの力で及ばないようなものになってしまったりしているんですね。しかし、地方にはやはりまだ、芸術っていう言葉は適切かどうかわかりませんが、そういったものを生み出せるような、新鮮な力が残ってると、私は思ってまして、また、思いたいと思うんですね。