私の尊敬しているフランスの哲学者のメーヌ・ド・ビランはこういうことを言っております。私は医科大学の学生や、あるいは看護学校の学生にこの言葉をよく紹介します。ビランはこう述べています、「悩まないときには、人は自分自身をほとんど考えない。自分が存在していることを感じるのは、健康でない人だけだ」と。健康な人は自分が存在しているということすらも考えないと。健康な人は哲学者でさえも「命」は何かを追求するよりも、命を享楽することに没頭する。それらの人たちは自分が存在していることに少しも驚かないで、あたりまえのように考えている。健康は私たちを外のものに連れてゆき、病気は私たちを私たちの内に連れ戻す。病気になってはじめて「私」というものを感じる。そういう意味において、私が1年間療養したということは、1年間を失ったということではなかったのだと思い当たるのです。私はそれまで中学から高等学校、高等学校から医学部というようにカッコよくエリートのコースを行ったわけでありますが、そこでつまずいて1年間遅れた。私はその1年を失った1年として残念に思っていた。私と競った友達が先に博士になり、先に講師になり、先に助教授になるという道を行っている。遅れを挽回するということはなかなか難しかった。しかし、私が20年も30年も医者をやっていて、もうこれで63年になりますけども、それで感じることは、私がつまずいて、病気で1年間床に就き、8ヶ月間トイレにも行けなかったということは、私が実践する医療の道を行く医師としては、患者の心がわかる経験が与えられた。病気のことは勉強すればわかりますよ。教科書でわかりますけれども、病んでいる人間のことは理解できません。私は1年を失って、みんなよりも遅れたけれども、臨床家として生涯を送るためには、患者がよくわかる。そういう気持ちになった。それに気がついたのは、本当に運が悪いと思って不平を言っていた時から20年ぐらい経ってからでした。
これを宗教的な表現でいえば神様の恩寵というのです。試練があったからこそその人は伸びるのです。自分にそういう体験がなければ死んでいく患者、白血病で子どもを亡くしたお母さんの気持ちが理解できない。「どうしようもないですよ。化学療法もだめですよ」と冷たく言うだけです。それが本当に病気をしたり、自分の子どもを亡くしたようなお医者さんは、「お子さんは白血病ですよ」ということがなかなか言えないのですよ、つらくて。相手の気持ちを思いやるというような感性は、自分が病気をすることによって獲得されるものなのです。
ですから、ここには看護婦さん、あるいは医学校に関係している人がおられるかもしれませんが、医療をやる人は、ぜひ病気をしてほしいのです、死なない程度に。そうでないと患者さんやそのご家族の気持ちがわからない。聖路加看護大学に入学した学生に「今まで歯が痛いということを経験したことがありますか」と聞いたら、2/3はぜんぜん知らない、歯が痛いということがわからないというのです。私たちの時代は虫歯の予防教育がなかったので虫歯の子がたいへん多かった。ほっぺたがこんなに腫れるのですよ。私は少年のときの憂鬱なムードを思い出すときにはいつも「歯が痛い」ということを思い出すのです。そういうような歯の痛みを経験する人もいなくなってしまったということですね。知識だけはあるのだけど、病む人間の心がわからない。しかし、医者や看護婦や医療従事者になるためには、知識はあとからいくらでも入ってくる。インターネットでもいくらでも入るのだけれども、その病む人の心の傷を感じるようなことは、インターネットや本からは学べない。それは自分が経験するか、そのような患者と接することによってしか私たちは教えてもらえないのです。だから、患者さんは私たちの先生なのです。そういうことがやっとわかってくるのです。
私は、フランスの哲学者のビランが、人間というものは、健康であると命とか死を考えない。病んではじめて命のことを考え、死のことを考える。死への備えができるといっているのを紹介しました。