たとえば一卵性の双生児が生まれても、その子どもが違った環境で成長することによって、ある人は音楽家になり、ある人は詩人になり、ある人は実業家になったりすることがありますから、環境づくりというのが非常に大きい意味をもつ。そしていまや私たちは地球の環境を考えなくちゃならない時代になっている。日本の環境だけではありません。多くの工場が東南アジアに進出して、そこで公害を発生させたりしていることがありますが、ただ儲ければよいといってマーケットを拡大することだけから、私たちはもっと私たちの力ではつくることができないこの地球というものを、与えられたよい状態で温存させるために何をすべきか、これが皆さんの一人ひとりにその責任があるという感じがほしいのです。
そういうことを本当に感じられるような気持ちのある人間を感性のある人間、コンパッショネートな人だということができるわけですが、私は、死に対しても感性の高い人間としての教育を子どものときから施すことが必要であるということ、これがひいてはいのちを大切にし、地球の環境まで配慮しうる人間になるのだということをお話したいと思います。
日本財団の会長をしておられる曽野綾子先生は、臨時教育審議会という文部省の教育を改革をする審議会の席で「子どもに死の教育をすることが必要だ」と話したけれども、とうとう委員会の最後の文章のなかにはそれは載らなかったことがものすごく悲しいと思うと話しておられました。子どもには死の教育などは必要ではない、暗い話は必要でないというようなことだったのかもしれません。しかし、その子どもがどのようにおじいさんが死んでいくかということを見る、あるいはおとうさんが世話になっていた人が死んだときに、その子どもを連れていって、「おとうさんの世話になった人がこのような状態で亡くなった」というその姿を見せることによって、子どもは死がどういうものかということがわかってくる。
私は、孫がまだ4つ5つのときでしたが、ある方のお通夜に連れていきました。そこへ向かう道中、私の好きなフォーレの「レクイエム」を車の中でかけていたのですが、孫が言うのに、「私、これを聞くと悲しくなるわ」と。つまりお通夜に行くという気持ちとこの音楽とは、孫の心を揺すったのでしょう。音楽というものは私たちにそういう感性を強く呼び起すものであります。そういう音楽的な情緒のなかで、だんだんと子どもが成長し、感性が育まれていく。