沖縄本島と久米島では1969年に大発生が報告された(山里 1969*)。Nishihira and Yamazato (1974)は沖縄島周辺の80ヶ所で、一人のダイバーが10分間の遊泳で確認したオニヒトデ個体数を記録した。さらに、同様な方法を用いて、沖縄本島の37地点を、沖縄県観光開発公社(1976)、84地点をSakai et al.(1974)が調査した。これらの調査の結果によると、1969年に本島中央部西岸に発生したオニヒトデの高密度集団は1972年以後は、南北に分布域を移動した。オニヒトデ駆除個体数の変化もこの傾向に合致している(Yamaguchi 1988)。
沖縄本島では、1972年から1984年の間に、食害されたサンゴ群集の回復が見られたところもあるが、生サンゴの平均被度1は46%から7%に低下した(Sakai et al. 1974)。同時に、オニヒトデの相対密度は12匹/ダイバー/10分から4匹/ダイパー/10分に低下した。しかし、オニヒトデ密度とサンゴの被度の割合は1972年から1984年の澗に2倍に上昇していてオニヒトデの大量発生が慢性化していることを示している。Yanagiya(199また、その間にサンゴの分布はよりバッチ状になり、オニヒトデの分布はより均一になった。環境科学センター(1993)およびYanagiya(c1992)の沖縄本島周辺の調査結果によれば1992年には高密度のオニヒトデ集団は見られなかった。
一方、1974年には八重山諸島全域におよぶオニヒトデ大発生が始まった(海中公園センター1984)。八重山でのオニヒトデ発生の動態は、沖縄本島よりも複雑であった(Yamaguchi1986)。1972〜1978年は、この地域では、オニヒトデの大量発生は鳩間島と石西礁湖の南東側に限られていて、他の海域はオニヒトデの食害を免れていた(入江・御前1975)。しかし、1980年になると、石西礁湖ではオニヒトデ集団は急激に分布を広げつつ南から北に移動し(福田・宮脇1982、福田1976a, 1976b, 1976c, 1976d、鈴木1975、辰喜1976)、1983年にはほぼ全域のサンゴ礁が食害を受けた(宇井1984、野村1986、亀井・野村・宇井1987、小椋ら1989、野村1991、御前1994)。また、1980年、これまでオニヒトデが侵入していなかった西表西海岸では北から南へ移動した(海中公園センター1984、松下・御前1983)。
さらに、沖縄だけでなく、与論島、さらに黒潮下流である北方の四国の南西岸、紀伊半島、三宅島などでオニヒトデの大量発生が1970年代に観察され、駆除も行われるに至った(林1972a, 1972b、環境庁1974、Yamaguchi 1986, 1987)。
b. その他の地域
オーストラリアのグレートバリアーリーフ(GBR)では、オニヒトデによるサンゴの食害は、1966年に最初に報告された(Barnes 1966*)。これは、1963年にケアンズの沖約20kmの観光名所であるグリーン島で観察されたものである。その後、オニヒトデの高密度集団―“wave”―は、年々南下していった(Pearson 1972, Endean & Stablum 1973)。
1この報告書では、生きたサンゴ群集の投影面積がサンゴ礁平面に占める割合を生サンゴ(あるいは単にサンゴ)の被度(あるいは被覆度)と呼びます。