奇妙な違和感を覚えるようになったのは、ちょうどその頃だった。自ら剖出した筋や臓器に現実感がないのだ。目前にしているご遺体の体内構造が、自分を含む生きている人間のそれとどうしても結びつかない。もちろん知識としては吸収できるが、その知識が自分の血肉となって、やがて、それを基に生きている人間を診るという状況が想像できない。実習に慣れスムーズに進行するようになってきただけに、このままでは徒らにご遺体に手を入れているに過ぎないのでは、と申し訳なくも思った。
ご遺体がより身近な存在になるにつれ、こうした違和感は次第に解消された。私たちの班では、ご遺体をお名前で呼ぶようになっていたが、「○○さんの筋は立派だね」などとしばしば、何気なく口にしているうち、まるで親戚のような親しみが湧くようになった。ご遺体が個別性のある一人の人間として見えるようになってきたのだ。同時に、人間の解剖を学んでいる自分の姿も、はっきりと像を結んできた。ようやく地に足がついたように思えたものだった。
平常心で学習できるようになってからも、壁はまだあった。教科書の参考図のようには見えない部位が増えてきたのだ。以前よりは観察が丁寧になったためではあろうが、立ち往生を余儀なくされ、なぜ教科書と異るのかと嘆息せざるを得なかった。ふと思い出した山崎先生のお話が、そんな見方を転換する契機となった。「自分の目で見たものだけを信じる解剖学」。