1610年には再び英国の支援の下、北西航路の探査を行い、ハドソン(Hudson)海峡を発見、ハドソン(Hudson)湾で翌1611年までの一冬を過ごした後、帰国の途に就いたが、船員の反乱により、ハドソン親子とハドソンに行動を共にした船員数名は小船への乗船を強いられた。以後小船の行方は判らず消息を絶ったが、その後の捜査活動と共に北西航路啓開史の中でも痛ましい悲劇として特筆される。
北西航路については、ジョン・デービス(John Davis)、ロバート・バイロット(Robert Bylot)、ウィリアム・バフィン(William Baffin)、トーマス・バトン(Thomas Button)などにより航路啓開の努力が続けられたが、カラ海以来の北東航路探査については、商業航路啓開への絶望感から、バレンツ以後は沿岸沿いの渡り歩き航海を行ったロシア交易業者を除けば、見るべき探査努力は見られず、一世紀が経過した。
ベーリングの探査
1725年に至って、ロシア皇帝ピヨトル大帝の命令によるシベリア沿岸域の探査、海図の作成が始まった。デンマーク人で帝政ロシア海軍の軍人であったベーリング(Vitus Bering)は大帝の大命を拝して数次に及ぶシベリア沿岸域の探査を行った。1733〜43年にわたるロシア領北極海域のベーリングの探査は、後世 "The Great Northern Expedition" と呼ばれた大事業で、カムチャッカ、東シベリア海、ベーリング海から、アリューシャン列島、アラスカ西海岸にまで及び、信頼に足る航路情報と捕鯨業者やアザラシ・ハンターに新たな漁場情報を提供した。が、一方で、NSRの将来性について暗い蔭を投げかけた探査航海でもあった。
ベーリングやその他ロシア海軍士官による探査により、シベリア沿岸域の地理的情報は次第に整えられはしたが、これらの努力にもかかわらず北東航路啓開は依然として捉えどころのない状態のまま、1878〜79年のノルデンショルド(Adolf Erik Nordenskjold)の航海を待つこととなる。