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はじめに

紙野 「なぎさワークショップ」もかなり実績を積み、今後は「なぎさ海道」をさらに飛躍させる段階にきました。特に大阪湾沿岸域の住民の方々にご参加いただきながら、できるだけ広く「なぎさ海道ムーブメント」を起こしていくことが課題です。

本日の午前中、兵庫運河周辺において第13回ワークショップが開催されました。兵庫区では、市民、企業、行政、専門家が協力しながら、運河を活かしたまちづくりを行なっています。こうした活動は、今後の「なぎさ海道」の推進にたいへん参考になります。兵庫津は、まさに大阪湾の原点の一つです。千年を超える歴史をもち、しかも各時代の実績が現在につながっています。この兵庫津で「なぎさフォーラム」を開催することはたいへん意義深いことと考えます。

本日は、兵庫運河を活かしたまちづくりに携わっていらっしゃる森崎輝行さん、「西淀川区民の海岸造り推進会議」代表の喜多幡龍次郎さん、徳島市の「新町川を守る会」会長の中村英雄さん、海そのものと関わりが深い林崎漁業協同組合企画研究室長の鷲尾圭司さんなど、ムーブメントに結びつけていく活動をなさっている方にお揃いいただきました。皆さんの活動やご経験をうかがいながら、なぎさ海道の今後について考えてみたいと思います。では森崎さんからお願いいたします。

 

兵庫運河の歴史

森崎 まず兵庫運河の歴史について簡単に説明させていただきます。兵庫の港は、奈良時代に僧の行基によって整備されたと言われています。摂津丹波五泊の一つとして大輪田の泊と呼ばれ、平清盛の時代には宋との貿易の拠点として大修築工事が行なわました。室町時代には明との交易、江戸時代に入って西回り航路を開かれた後は、東北や北陸、九州から瀬戸内海を経由して来る船で賑わいました。1786年の兵庫の入口は約2万人、現在の兵庫区の人口は約10万人、つまり当時は現在の5分の1程度の人口でした。同じ頃の江戸やパリの人口は、現在の10分の1程度ですから、いかに当時の兵庫に人口が集中していたかがおわかりいただけるでしょう。

兵庫港は諸外国の圧力を受け1868年に開港、同じ年に兵庫県庁も誕生します。そして1874年からは神田兵右衛門によって運河の開削工事が始まりました。1890年に和田岬に遊園地「和楽園」が完成、1897年には日本で最初の水族館が開館します。1899年、兵庫運河が完成し、今年は開削100年を記念するイベントが行なわれました。また回転橋や日本最大の一葉式跳開橋である高松橋など、土木的に興味深いものがあるのも兵庫運河の特徴です。

 

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フォーラム会場風景

 

運河を活かしたまちづくり

森崎 1989年に策定された神戸市のマスタープランの中で、インナーシティー・プロジェクトが基本計画として挙げられました。プロジェクトは全部で19件ですが、そのうち7〜8件がこの兵庫区にあります。現在、地元住民や企業、行政、専門家が協力しながら、これらのプロジェクトをどう進めていくかについて考えています。ではOHPをご覧いただきながら、いくつか事例をご紹介したいと思います。

兵庫運河は本川が1.9km、支川が760mという日本で最大の運河です。1993年から建築家6人が集まって、この兵庫運河を活かしたまちづくりについて考えています。例えば、JR和田岬線を観光鉄道化することを提案しています。中央部を運河の駅にするイメージです。運河に水上バスを走らせポートアイランドなどの人工島と結ぶ、あるいは兵庫駅から続く細い運河をプロムナード化していくことも考えています。また兵庫運河の水をきれいにするための提案、中央部をメディアパークとして公園化する提案もあります。

1998年、地域の人たちの連携を目指し、兵庫運河一帯で第1回世界運河祭が開かれました(写真1])。「コムスティ」とは「コミュニティ・スティ」を組み合わせた造語で、ホームスティのコミュニティ版と思っていただけたら良いでしょう。いろいろな人が滞在できるような町にしていくことを目標にイベントを展開しました。

 

 

 

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