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ワークショップvol.10

海辺の歴史・文化の保存と新たな活用

 

講演「坂越の歴史・文化とまちづくり」 若松繁之氏/坂越のまち並みを創る会会長

 

坂越の歴史

坂越は、中世から内海航路の中継地として重要な役割を占めていました。江戸時代に、西廻り航路が成立した後は、諸国の船の入港が盛んになり、廻船業が一層発達します。

また九州や四国の大名たちは、参勤交代の際、室津まで海路をとり、室津から江戸までは陸路をとることになっていました。ところが、国許を同時に出発した複数の船団は、潮流の関係で室津に到着する頃には散り散りになってしまいます。そこで、ここ坂越でそれぞれの船が待ち合わせ、船団を整えて打ち揃って室津に入港していました。

越後や加賀などの北前船が台頭した時期には、一時にぎわいはなくなりますが、幕末から明治にかけて赤穂の塩業が盛んになると、坂越はその積み出しを一手に引受け、再び活況をとり戻します。坂越から塩を積み出し、帰路には各地の名産品を買い付けるだけでなく、坂越大道や千種川に発着する高瀬舟を使い、山間部の米や野菜も全国に流通させました。

また、赤穂塩田の地主でもあった奥藤家と江崎家は、塩廻船によってさらに財をなし、日露戦争時には奥藤銀行と坂越銀行(両方が合併し、現在のさくら銀行となる)を設立しました。当時の赤穂には、まだ銀行がなかったことを考えると、その頃の坂越がいかに経済的に繁栄していたかがおわかりいただけると思います。

 

生島と坂越の船渡御祭

坂越の人々は、生島(いきしま)を「神の島」として大切にしています。生島は古来から伐採が禁じられていたので原始の姿を保っており、樹木の種類は200種類以上にものぼります。

この生島で毎年10月の第2日曜日に行われるのが、坂越の船渡御祭です。航行安全を祈願して、御輿を乗せた色鮮やかな船行列が大避(おおざけ)神社から生島まで巡航するこの船祭は、宮島の管弦祭、大阪の天神祭と並ぶ瀬戸内三大船祭りの一つでもあります。

この祭りは昨今のイベント化された祭と異なり、360年以上の伝統と様式をかたくなに守り続けています。昨今、坂越も過疎化が進み若者が少なくなってきていますが、何とか形は変えずにこの祭を続けていこうと思っています。

 

景観対策協議会と景観形成地区指定

平成元年、赤穂市に都市景観条例が制定されたことをきっかけに、市から坂越に景観形成地区指定の打診がきます。当時の坂越地区内には、文化保存やまちづくりに関する団体が複数あり、名所旧跡に看板を設置したり、研究会を開いたりしていましたが、その活動はバラバラでした。また住民にも、まちづくりに対する思いが各々ありました。もっと組織だって、町の文化を守ることができないだろうか。そう考えた私たちは、景観対策協議会を発足させました。会では、景観形成地区指定を受けるかどうかも含め、市から提示されたまちづくりの課題や方法を検討し、形成地区の範囲や基準についての協議を始めました。なかなか意見がまとまりませんでしたが、何度もアンケート調査や研究会、講演会を実施した上で、平成3年12月8日、町の体育館で住民大会を開催し、景観形成地区指定を受けることを採択しました。こうして、平成4年4月1日、坂越地区の面積約36.4ha、約530戸が景観形成地区指定となったのです。

 

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旧坂越浦会所で講演する若松氏

 

「坂越のまち並みを創る会」の発足と12項目の要望

指定を受けると同時に、協議会も「坂越のまち並みを創る会」と名称を変えました。会の名称には、あえて「保存」という言葉を入れていません。古いものを大切にするだけでなく、古いものを活かしていこうという気持ちから「創る会」という名称にしています。

景観形成地区指定を受ける際に提出した12項目の要望の一つが、旧坂越浦会所の復元です。かつて浦会所は、行政や商業の事務をとる「会所」であると同時に、赤穂藩の茶屋として使われていましたが、この数年はビニールシートと金網に被われたままの状態でした。幸い昔の絵図面が残っていましたので、建物を一度全部解体し、古材を7割、足りない部分は新材で補って復元しました。

 

 

 

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