秋田大会2001年8月16日〜26日
WG(ワールドゲームズ)豆知識
【第2回ロンドン大会】
第2回ワールドゲームズは、1985年7月25日から8月4日にかけ、英国ロンドンで開催された。開催競技数は20。新競技(フィールドアーチェリー、ファウトボール、コーフボール、ライフセービング、ネットボール、ペタンク、サンボ)が追加される一方、オリンピック競技となったバドミントンと野球が開催競技から外れた。世界57ヵ国から集まった約2,000人の参加者はロンドン近郊の8つの会場に分かれ、その力と技を競い合った。
選手村となったのは地元の大学「ロイヤル・ハロウェイ・カレッジ」の寄宿舎で、中世の城を思わせるレンガ造りの瀟洒な建物は選手たちに好評を博した。
大会は地元選手の活躍に沸いた。トランポリン女子シンクロでは、ホームズ、トーマス組が息の合った演技を披露して金メダルを獲得。パワーリフティング男子125kg超級では、スティーブンスがベンチプレスとデッドリフトでそれぞれ英国記録、欧州記録を塗りかえ、トータル930kgをマークして他の選手を圧倒した。
日本からは空手、ソフトボールなどの7競技に38名の選手が参加し、空手とパワーリフティングで5人の金メダリストが誕生した。
フィールド
Item of WORLD-GAMES
*このコーナーでは、ワールドゲームズの種目を順次紹介しています。
空手道
古くは琉球にルーツをおく、空手道。
武道として発展した徒手空拳の格闘スポーツは、観て美しく、やって痛快!


空手の発祥の地は古来、琉球と呼ばれていた沖縄です、その源流は、彼の地で古くから伝承されてきた独自の格闘技「テー」が、14世紀後半に伝来した中国拳法の影響を受け、現在の形に発展したと考えられています。「空手」という名称の由来には諸説あります。中国(唐)に学んだ拳法(テー)ゆえに、当初、「唐手(トーテー)」と呼ばれていたものが「カラ・テ」と読み替えられ、その後、手に何の武器も持たないことを意味する「徒手空拳」の「空」が「唐」の字に置き換わり、「空手」になったとする説が一般的です。
空手は長い間、秘技として伝承されました。沖縄で一般に広まったのは1900年代初頭のこと。その後本土に上陸しました。1922年、東京で開催された第1回体育博覧会で、「形(かた)」の演武が公開されたのを契機に、大学を中心として日本各地に普及しました。海外にまで広まるのは戦後のことです。昭和30年代以後、多くの日本人指導者が海を渡り、空手を全世界に広めました。
空手はその発展の過程で様々な流派に分かれました。その数は大小合わせ100を超えます。各流派は独自の活動を続けていましたが、1964年の東京オリンピックを契機として、大同団結の機運が高まりました。同年、国内唯一の統括団体として全日本空手道連盟(JKF)が設立され、5年後の1969年、統一ルールのもとで、第1回全日本選手権が開催されました。また海外でも、1970年に世界空手道連合(後に世界空手連盟=WKFに改称)が結成され、同年、東京で初の世界選手権が開かれました。現在、国内の空手人口は約300万人、世界では165ヵ国がWKFに加盟しており、4,000万人の愛好者、競技者が日夜稽古に励んでいます。
【競技方法】
空手道は、徒手空拳による格闘スタイルのスポーツです。その種目には、実際の相手と一定のルールに則り対戦する「組手競技」と、多数の敵との攻防を想定した一連の動作を一人で演じ、その正確さを競う「形(かた)競技」の2種類があります。「組手競技」では、8メートル四方のコートの中で互いに突き、蹴りを繰り出します。ただし、選手の安全に配慮して、相手の身体に当たる寸前で攻撃を止める「ノンコンタクトルール」が採用されており、誤って当ててしまった場合は反則となります。試合時間は男性が3分、女性が2分。
的確な間合いで威力のある技が決まれば「一本」、「一本」に匹敵するが、やや軽度の技を「技あり」(「技あり」2回で「一本」に相当)とし、先に三本取った選手が勝者となります。双方とも時間内に三本に達しなかった場合は、「一本」「技あり」の合計ポイントの多い方が勝者となります。
「形」は空手の発展の過程で体系化されたもので、選手は大会で公認された「形」の中から得意なものを選んで演じ、技の正確さ、気迫、緩急などの要素の総合評価(複数の審判が10点法で採点)で勝敗が決まります。
【問い合わせ】
(財)全日本空手道連盟
〒105-0001 東京都港区虎ノ門1-11-2日本財団第二ビル
TEL 03-3503-6637
FAX 03-3503-6638
My Challenge(マイ・チャレンジ)
チャレンジは終わらない
鳴海龍寛さん
アームレスリング全日本一般男子50kg級チャンピオン

平成6年5月、バイクによる事故で、私は車椅子での生活を余儀なくされました。体操部に所属し、それなりに学生生活をエンジョイしていた自分が、一転して障害者になったわけです。ショックでした。開き直りといいますか、現実を受け入れるようになるまでしばらく時間がかかりました。自分の中にゆとりが生まれはじめた頃、ストレス解消の意味で始めたのがアームレスリングでした。
八戸アームレスリングクラブに所属して、約4年。最初は、非力で、クラブのみんなに遊ばれていたようなもの。単純に「腕相撲だろう」とナメてかかったのが失敗でした。アームレスリングは、「レディ、ゴーッ!」で相手の手をパットに押しつければそれで勝ち。
しかし、この単純さゆえに、勝つためには奥の深い技術が要求されるスポーツだったのです。
腕の筋肉がパンパンになるほど練習し、車椅子に乗れずに落下したり、人の手を借りなければ動かすこともままならないときもありました。それは、練習を積み重ねていくうちに、「試合に勝ちたい、強くなって全日本や世界大会に出場したい」という意識が芽ばえてきたからでしょう。
車椅子のアームレスリングはまだまだ競技人口が少なく、全日本での優勝も狙えると、自分でも感じていた頃です。当時は、「車椅子に乗っているのだから車椅子の部」と単純に考えていた私に、「一般の部に出てみないか?」とクラブの人たちが勧めてくれたのです。目の前が開けた感じがしました。どれだけやれるかわからないけれど、チャレンジしてみよう。体重制限はあるし、腕の力ならそんなに差はない、やり方次第では十分に勝算があると考えたのです。
平成10年、11年と連続で、全日本一般男子50kg級左・右両部門で優勝しました。足が動かなくても練習と経験を積み、試合で気持ち負けしない精神力を身につければ勝てる、ということを結果で証明することができたのです。しかし、世界の壁は厚く、昨年12月に開催された世界大会では一勝もできず、新たな屈辱を味わって帰ってきました。
「車椅子だからすごい」ではなく、車椅子の枠にとらわれず、一個の人間として目標に向かい、それを全うすることの難しさ、大切さを経験していくこと─それが自分の中での初心です。一つの目標を達成しても、新たに生まれる次の目標に向かう気持ちを持ち続けたい。今度は新しく、「世界チャンピオン」という目標ができました。一からの出直しです。もっともっと上を目指し、初心を忘れず頑張っていきたいと思っています。
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