貧酸素水塊が、底生生物群集の著しい衰退をもたらすという報告は東京湾をはじめとして多い。しかし、貧酸素化のより大きな問題は、その結果として底泥と水中との物質収支が大きく変化し、流入負荷の増大と併せて水底質の悪化や内湾生態系の変化をさらに大きく加速しないかという点にある。仮に貧酸素化による底生生物群集の構造の変化が底泥と水中との物質収支を大きく変化させ、そのフラックスが流入負荷に対して無視できないとすれば、流入負荷の制御だけでCOD、TN、TP濃度の環境基準を達成することは困難となり、内湾環境を好適に維持するという行政目標が達成できない恐れが生じる。以下に示す三河湾における観測結果は、このような貧酸素水塊のもたらす極めて危険なフィードバック("負の連鎖")の可能性を示している。以下はその概要である。
図3は貧酸素化の進行過程と、それに伴う底生生物群集の変化を三河湾浅海部において約50日間観測した結果である。
観測期間中6月11日から断続的に貧酸素化し、7月20日から急速に無酸素状態が進行し、7月23日、7月26日にはほとんど一日中無酸素状態が継続する状況となった。底生生物群集の構造はDO濃度の変動により大きく変化し、バクテリアは一時的な貧酸素化により一旦増加したが、貧酸素化の進行により最終的には大きく減少し、結果として未分解の底泥デトリタスが増加した。底生性微小藻類は日射量によって変動したが、やはり貧酸素化の深刻化により現存量が低下した。メイオベントスは一時的な貧酸素化に敏感に反応しつつ増減したが、貧酸素化の深刻化に伴い現存量が激減した。マクロベントスは初期の一時的な貧酸索化には影響されなかったものの、貧酸素化が深刻化する過程で下層堆積物食者を除いて現存量が激減した。
これら観測結果をもとに、底生生態系モデルを利用し、底泥内の窒素循環および底泥と水中との物質収支を時系列で計算した。
底生生態系モデルを構成する状態変数の基本式には貧酸素化による各生物現存量の変動を再現できるような定式を追加した。メイオベントス、堆積物食者、懸濁物食者について、自然死亡に加え、貧酸素化による死亡を考慮し、底面直上水のDO飽和度及び水温により死亡を制御した。バクテリアについて好気層のバクテリアの摂取をDOの関数とし、貧酸素化により摂取力低下することを考慮するとともに、自然死亡に加え、貧酸素化による死亡を考慮し、底泥直上水のDO飽和度により死亡を制御した。逆に嫌気層のバクテリアは貧酸素化により限定的に増殖するように設定した。メイオベントス、堆積物食者、懸濁吻食者の貧酸素化による死亡関数は観測結果にもとづく経験式であるが、バクテリアの摂食、死亡、増殖の定式化は観測された現存量を再現するよう定式やパラメーターを設定した。従ってこの部分については文献的、実験的な裏付けは無い。
このモデルは底生生態系に限定し、浮遊生態系については植物プランクトン、デトリタス、NH4-N、N03-Nを設定し、干満に伴う各ボックス間の海水移動を考慮しているが、浮遊系内部での生産や捕食・分解といった物質循環は扱わず、外部境界での観測値を固定して与え、底泥直上水中と底泥との間の交換だけを考えている。計算は二つの海域(BOX1:水深−2.5m;BOX2:水深−4.5m)に分けて行った。
計算の結果は図4(貧酸素化の起こっていない6月1日の窒素循環と収支)や、図5(貧酸素化が進行した7月29日の窒素循環と収支)の形で連続して出力される。これらの計算結果から、底泥と海水との物質収支のみを時系列的に表したものが図6である。