一方、一色千潟での現場実験により、干潟単位面積当たりの海水ろ過速度は、3.4m3/m2/日と求められた。成層期の海水交換速度を高めの2,600m3/秒とすると、一色干潟約10km2ではその15%に相当する速度(395m3/秒)で海水をろ過することとなる(低めの1,600m3/秒では24%)。埋立が進む以前の過去の三河湾における千潟面積(26km2)で計算すると海水交換速度の39%〜64%に相当する。干潟以外の沿岸域や沖合部でのマクロベントス現存量も考慮に入れれば、この値を大きく上回り、場合によっては海水交換速度に匹敵する可能性がある。このことは、干潟域の喪失によって、三河湾の懸濁物の排出機能が少なく見積もっても24%〜40%低下したとも言え、流入負荷の増大とともに貧酸素化の大きな要因となっている可能性が高い。
現在、三河湾の富栄養化を物理的に解消するため、渥美半島にパイプラインを掘り、清浄な外海水を150m3/秒の速度で導入する案も検討されており、この構想では用地買収費用を含まないで1,520〜1,750億円と試算されている。一色千潟はこの2.6倍以上の海水ろ過速度を有しているため少なく見積もっても4,000億円〜4,600億円の価値を持つという見方もできる。
また、千潟による水質浄化効果が下水道に対する必要な投資に対してどの程度のものなのかを試算した結果もある。
今回対象とした千潟(1.65km2)の持つ懸濁物除去能力を、標準活性汚泥法による下水道処理施設との比較を試みた結果がある。これによると日最大処理水量75.8干トン、計画処理人口10万人、処理対象面積25.3km2程度の下水処理施設に相当することとなり、最終処理施設の建設費が122.1億円、同維持管理費5.7億円と試算された。さらに、下水道施設としては、用地費、管きょ費、ポンプ施設、同維持管理費が必要になる。これらを費用換算するには様々な仮定を置かなければならないが、埋立地に建設し、管きょ延長200kmとすると用地費を除き878.2億円と試算される。底泥表面に堆積した有機懸濁物の堆積物食性マクロベントスによる摂食分を考慮すればさらに大きな金額となる。さらに下水道施設は維持管理の費用が必要であるが、千潟からは、逆に漁獲等による収益が見込まれることも忘れてはならない。また、この比較で注意すべきことは、下水道処理施設は高濃度少量排水の集約的処理を前提としており、千潟のような大量かつ低濃度の水処理には不適であり、上記の費用で干潟と同等の機能を実現できる保証はない。
これらの2つの比較例は多くの不確定の要素を含んではいるが、いずれも千潟は湾の浄化にとって経済的にも極めて貴重な社会資本であることを示唆している。
三次処理機能の面からみた千潟の評価については紙面の制約からここでは省略するが、興味のある方は著者らの文献をご参照願いたい。簡潔に結論だけを述べれば三次処理機能は大型藻(草)類の繁茂の程度、換言すれば干潟に付帯する藻場の面積によって左右される可能性が高く、近年その機能が減少している。ということである。
これらのことから伊勢湾において、豊かな生物資源の永続的利用を可能にする"鍵"は「干潟・藻場を含む浅場の保全」にあるといっても過言ではない。しかし、近年の湾を取り巻く環境は上述のように、この"鍵"の維持が危惧される状況が持続しており、すでに伊勢湾の一部である三河湾においては浅場の喪失による悪影響が水質面で顕著となりつつある。
三河湾における赤潮や貧酸素水塊の発生状況を見ると、ともに1970年代から急速に発生規模が拡大している。この急速な拡大は図2に示すように埋め立ての進展による浅場の喪失と期を一にしている。このことは、埋め立てによる底生生物群集の膨大な喪失により、既にその時点で増加していた流入負荷による水中懸濁物質の増加を生物的に制御できなくなったためと理解するのが妥当であろう。底生生物群集がその摂食活動により内湾水中のプランクトン群集の構造や栄養塩濃度などを変化させ、湾全体の物質循環にも大きな影響を与えているという報告例がいくつかあるが、三河湾は皮肉にも環境悪化の面からそのことを実証しつつある例とも言える。