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61歳の肺がんの女性は、化学療法を拒否して仕事もしていました。しかし病状が悪化し、20年以上勤めた会社を退職し、在宅でコントロールできず入院してきました。退職金はかなり少なかったようで、「一生懸命働いてきた年数は何だったのか。病気になっても働いてきたのに、会社の評価がそれくらいだと思うと辛い」と悔しがりました。日がたつにつれ「会社で一緒に働いてくれた人たちは、よくやってくれたと言ってくれ、それで満足している。でも会社のことはもう考えない」と話してくれました。病気に対しては「延命を望まない。苦しまないようにしてほしい。どうせ死ぬなら早い方がいい」と最初は言っていました。しかし、「苦しい時には、こんなに苦しいくらいなら生きていても仕方ないと思っていたけど、今は少し楽になったので、やはり生きていたいと思う」とか、体力的に弱ってきているが「足が腫れて持ち上がらなくなった。歩けない。ショックだ。歩けなくなって、トイレに人の手を借りるようになったら情けない。歩く練習をする」「私だってどうなるか不安なのよ。いつどんな形でくるかと思ったら恐い。だんだん恐くなってきたら、違うことを考えるようにしている。きっとおそらく恐くない人なんていないよね。きっと」といろいろな心境を訴えられました。

この患者により、自分の今までの人生を頑張ってきたと認めてもらい、確認したかったのではないかと思いました。

また、がんの告知を受け一見悟っているかのように見える患者さんも特別な人ではなく、不調の時は不安、恐怖が襲いかかり、または自暴自棄になったり、調子の良い時には希望を持つごく普通の人間なのだということを再確認することができました。そして日常生活の自立ということが、患者さんの生きる希望の支えの大きな部分を占めるということも理解できるようになりました。

これらのことはほんの一部です。様々な患者、家族と接し、抱える問題、悩みは本当に個々様々で、講義で習ったことが実際の現場を通してわかり、本当に勉強になりました。また緩和ケア病棟の看護婦さんの、患者の話を聞き出す応対もすばらしいと思いました。

 

私は人口3万人の市民病院の看護婦であり、今後私の病院で緩和ケア病棟を新規開設することは考えられにくいと思います。しかし、がんで苦しんでいる人たちがすべて緩和ケア病棟に入れるわけではなく、また地域に行けば行くほど自宅の近所で死を迎えたい、いつもかかっている病院に入院したいという希望は多いと考えられます。ある先生の講義で聞いた、「緩和ケアが一部の医療従事者による一部のがん患者だけの特別な医療から、すべての医療従事者によるすべてのがん患者のための一般的な医療へと変わる転換点に立っている」という言葉が私の心に強く残っており、現在の病院でもやれることはあると痛切に感じています。専門知識の学習をし、患者をわかろう、痛みを分かち合おうとする気持ちをいつも持ち、今何がこの患者に必要かを見極める能力、適切な看護技術を磨くことに研鑚していきたいと考えています。なかなか難しいこととは思いますが、この実習で緩和医療も一般の人々の中に広がりつつあるのを感じることができました。

がんで苦しむ患者に対し、緩和ケアの部分を専門家とともに協力して医療をしていける体制がもっと広められるように、私も微力ながら考えていこうと思います。またチーム内の協力は必須条件ですが、少しずつ今までの考えを変えていけるよう、周りに働きかけていくことも大きな使命と感じています。

日々の煩雑な業務の中で一人のがんの患者にかけられる時間はそう多くはありません。しかしそれだからこそ、患者のだすサインを見逃さないように気をつけ努力していかないといけないと痛感しました。このような学びをさせていただき、実習施設のスタッフの方々に心から感謝したいと思います。

 

 

 

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