日本財団 図書館


PROGRAM NOTE

根岸一美

 

チャイコフスキー(1840〜1893)の作品は、オペラや歌曲にも重要なものが少なくないが、最も親しまれているのはやはりオーケストラ音楽といってよいだろう。本日の演奏会ではその代表的なジャンルであるバレエ音楽と協奏曲と交響曲から、各一曲が取り上げられる。

 

バレエ組曲《くるみ割り人形》より 小序曲

チャイコフスキー以前の時代にはバレエにおける音楽の位置づけは概して低く、すぐれた作品はあまり多くなかったが、彼の最初のバレエ音楽《白鳥の湖》(1875-76作曲)は新しい時代を切り開く音楽的価値の豊かな作品となった。しかし初演のときの踊りの評判がかんばしくなく、曲自体も当時の人々の感覚には複雑すぎたようである。そのためチャイコフスキーはその後10年以上もバレエには取り組まなかったが、1888年から翌年にかけて《眠れる森の美女》を作曲、そして3つ目のバレエ《くるみ割り人形》が1891年2月から1892年3月にかけて作曲された。<小序曲>は《くるみ割り人形》の幕開けの曲であるとともに、作曲者自身がバレエ音楽から8つの曲を選んで作り上げた「組曲」の第1曲でもあり、バレエのおとぎ話的な雰囲気を醸し出すような役割をはたしている。わずか3分あまりの「ミニチュア」の序曲で、木管とホルン、トライアングル、第1、第2ヴァイオリン、ヴィオラだけが用いられ、軽やかに進んでゆく。

 

ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 op.23

本日の3曲の中では最も早い時期に属し、チャイコフスキーがまだモスクワ音楽院の教授を務めていた1874年に書き始められた作品である。同年のクリスマス・イブに、まだオーケストレーションは出来ていなかったが、師のニコライ・ルビンシテインの前でこれを弾いたところ、厳しい批判の反応を示された。この作品は全体的に出来が悪く、そして演奏は不可能である、と判断されたのである。ルビンシテインは「一定期日までに…根本的な書き直しが済めば」弾いてもよいと語ったそうだが、チャイコフスキーは「いいえ、一音たりとも変えたくありません」と答えたという。曲は翌1875年の2月に完成し、当初のルビンシテインの名前を消した後に、ドイツの高名なピアニストで指揮者でもあったハンス・フォン・ビューローに献呈され、同年10月、彼の演奏旅行先のボストンにおいて彼のピアノにより初演された。ビューローはその成功の知らせを当時開通したばかりの海底電信を通じて、モスクワの作曲者に伝えている。ルビンシテイン自身は3年後の1878年3月に初めてこの曲をモスクワで演奏し、以後はペテルブルクやパリでも弾いて喝采を浴びるようになった。いったんは拒絶した曲であったが、次第にこの曲の独自の素晴らしさに気づいたということであろう。楽譜は1875年に初版が出され、1879年の第2版ではピアノのパートにおける若干の変更が行われ、さらに1889年の第3版のときには著名なピアニスト、シロティの助言などを容れてさらなる変更が加えられた。あの有名な冒頭のピアノによる和音は、この時に楽器の全音域を覆い尽くす形になったのだといわれる。3つの楽章から構成されており、両端楽章にはウクライナ民謡の旋律が用いられている。

 

交響曲 第5番 ホ短調 op.64

チャイコフスキーはピアノ協奏曲第1番を完成した翌年(1876)に、富裕なフォン・メック夫人と文通だけの関わりを持つようになった。夫人はチャイコフスキーの音楽を深く愛し、彼に作曲に専念できるための支援金として年額6千ルーブルの提供を申し出たのである。これによってチャイコフスキーはモスクワ音楽院での教授活動から退き、自由な音楽家としての歩みを開始することができた。1878年のヴァイオリン協奏曲はそうした時期の最初のすぐれた成果である。しかしそのころの彼は始まったばかりの結婚生活が破綻し、ロシアとヨーロッパの間を往復する生活を送りながら、長いスランプの時期を過ごすことになった。1885年2月、モスクワ近郊に住家を得て、ようやく落ち着いた創作生活が再開されるようになり、《マンフレッド交響曲》に続いて、第5交響曲が1888年8月ごろに完成された。これは彼の名声が新たに高まりゆくなかで書かれた曲であり、作曲者自身この曲の出来映えに強い自信を示していたが、この作品が真に名曲として評価されるようになったのは指揮者のアルトゥール・ニキシュの尽力によるところが大きいと伝えられている。4つの楽章からなり、暗い諦めのような気分から、さまざまな情感の陰影を経て、最後には完全な勝利に導かれるという構想が貫かれている。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION