「コンポージアム1999」では、20世紀を代表するイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの世界を紹介します。ベリオの管弦楽、室内楽作品はもとより、自らの指揮によるコンサート、トーク、そして「武満徹作曲賞」の審査などから、ベリオの多面的な世界を体験していただけると思います。
ベリオの音楽に惹かれ、それぞれの視点で研究を進めてきた3人に、ベリオの魅力を語っていただきました。
有田●"雑食"というよりも、作品自体が多面性を持っている感じがしますね。読めば読むほど、真意がどこにあるのか分からなくなる。真意に近づいたかなと思うと、実はもっと違うところに真意があるのかもしれない、と思わせるようなところがあるんです。だから視点をずらしていかないと、なかなか本体が見えてこない。
ベリオは、人間のタイプには、色々なものに首をつっこむ気が多い「キツネ」と、1点に狙いを定めて深く掘っていく「モグラ」の2種類あると言って、自分自身を「キツネ」に分類していたんですけれど、最近のインタビューでは「でももしかしたら死ぬ時になって、やっぱり自分はモグラだったってことになるんじゃないか」と言ってるんですね。私はずっとモグラに違いないと思っていたので、「やっと白状したな」って感じです。
というのは、私の興味から言えば、やはり今世紀、人の声というものにあれだけこだわった作曲家というのはいないと思うからです。もちろん声を使って実験的なことをやっている人はたくさんいるし、ベリオの場合もほんとに色々な使い方をしているから、その「色々」っていうところに目をひかれれば、確かにキツネに見えますけれど、でも、ベリオがやりたいことは一つなんじゃないか、って思ったんです。つまり彼の場合、声は、人間の肉体の中から出てくるものだってことがまず根本にある。誰がいて、その人がどういう状況にあるのか、そういう状況から、いったいどんな声がでてくるのか、それだけが彼の関心なんじゃないかと。色々なことをやっているように見えるのは、たとえば、あることをなんとか人に伝えようと思ったら、言葉や表現を変えて説明しますよね、それと同じだと思います。このモグラは、掘るものが決まっているからこそ、あっちこっちから掘っているのかなと。それに音楽の中に人間が見えている、っていうか、そういうところがとても安心できる気がするし。私が好きなのもそこなんです。
沼野●僕は、ベリオという人は典型的なモグラ人間だと思いますね。多彩なことをやっているようでいても、根本的な部分では新しい語法の導入にはとても慎重ですし、自分が掴んだ方法論を容易には手放さないから。
有田●一見キツネで実はモグラというのが、おもしろいところかもしれない。モグラも掘る所をみつけるまではキツネでいないといけないわけですからね。
ポリフォニックな視点〜注釈、トランスクリプション
白石●ところで、ベリオの作品はどれも複眼的な視点がありますよね。求心的にひとつのものに向がうというよりも、遠心的というか、複数のものの存在を同時に感じているという気がする。そういう見方は音楽の中ではポリフォニーという形であらわれています。声部のポリフォニックな関係によって音楽的な空間を構成したり、テクストとテクストの間にポリフォニックな関係を作ったり……。
私は《シンフォニア》からベリオに入っていったので、《セクエンツァ》のシリーズを後から聴いた時、はじめは同じ人の作品かしらと思うほど、ちがう印象を持ちました。演奏の技巧ばかりを求心的に追求した作品に思えて。でも、よく聴きこんでいくと、独奏楽器の可能性をくみ尽くしながら、ここでもやっぱりベリオ独特のポリフォニーが実現されているんですね。
沼野●ベリオのポリフォニーというのは、注釈としてのポリフォニーというか、言ってみれば中世的な形態を強くとどめているように思うんです。声部と声部が対等な関係で交差したりぶつかり合ったりするというよりは、中心の線があって、それに対して他の声部が注釈を加えるように絡んでいくというような。こうした面は年を追う毎に強くなっている感じがします。
白石●でも初期の《ヴイザージュ》(60-61)もそうよね。テープと声のポリフオニー。テープに吹き込まれたノイズとバーベリアンの声が飲んだり飲み込まれたりといった、なかなか「こわい」曲なんだけど、結構官能的だったりして。あれは感動したなあ。あともう少し広く見ていくと、作品と作品の間にもポリフォニックな結びつきがあるよね。