日本財団 図書館


そういう要素が非常に強かったと思います。

そういう形で戦前すでに世界第二の海運国というステータスを確立させましたが、戦争の最中に日本には商船隊防衛という意識が海軍にはあまりありませんでしたから、船は片っ端から沈んで、ろくな船が残らなかった。事実上ゼロからのスタートということになりました。

 

2.2:高度経済成長の隘路解消、国際収支改善の手段(戦後)

外航船隊整備計画

 

日本では昭和30年代以降、急速に重化学工業化が進んできたわけですが、その頃同時に所得倍増論みたいな長期計画がありまして、池田勇人を中心とする経済政策の要にあった人たちは、海運の重要性をそれなりにわかっていたという気がします。その頃は今のように船が余っていませんから、自由に大量の船を建造しないと、日本の重化学工業を担う鉄鋼原料や原油輸送に齟齬を来す。それがボトルネックになって、日本の高度経済成長が阻害されるということがある程度わかっていたんですね。だから所得倍増計画とか経済社会発展計画などの中期計画、経済計画ができるたびに、船舶の建造計画、二千何百万トン建造とか三千何百万トン建造とか、その都度、日本で船を作る目標が上がっていくわけです。そして、積み取り率、日本船の運ぶ比率を50%以上に維持するというようなかなり明確な目標を掲げて、海運に力を入れたということがあったわけです。そういう状態が昭和48年まで続きました。

 

2.3:石油危機による船腹大幅過剰の表面化

先進国船員の競争力喪失、個別海運企業救済策へ転進

 

そのときに、例のオイルショックがありまして、これは日本経済としてはもちろん、世界経済にとっても大変な一つの構造変化でした。オイルショック以前は、日本のGNPは年率で10%を超すような勢いで伸びていたわけで、それ以上の割合で輸入量がどんどん増えていました。それに合わせて、先ほど申し上げたような経済計画に船腹大量建造計画が含まれているという状態で、船ができている。

ところが、ある日突然、オイルショックで荷動きがパタッと横ばいになってしまった。世界的に35〜36億トンの荷動きが当時あって、そこのところで停滞し始めた。日本の輸入量が6億トンぐらいですが、そこでピタッと止まり始めた。しかしそれ以前に船は発注していますから、荷動きの増加が止まっても、どんどん船ができるわけです。大幅な船舶の過剰状態が出現したということになったわけです。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION