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こたえを申しますと、一つには、かつては国策というものと海運というものが結びついていたものですから、世界でどういう海運政策をやっているかという情報を広く集めて、むしろそれで政府を突き上げようという要請が一つあったと思います。

もう一つは、海運のマーケットというのは株式市場と一緒で、変々常ないというか、上がったり下がったりがものすごく激しい。海運マーケットのグラフを一般の人に見せると、「これは地震計かい?」と言われます。とにかく運賃は、1/10とか1/20になってしまう。オイルショックの前、高度経済成長の末期の頃のタンカーの運賃は、大体ワールドスケールで400という数字が瞬間的に出ていました。ところが、オイルショックで物が動かなくなってしまったというと、それが一気に20ぐらいまで下がってしまう。1/20ですね。株価はなかなか1/20にはならないし、物の値段が1/20になるといっても誰も信じてくれないところがあります。やはり経済情勢とか政治情勢にものすごく左右されますから、そういうものを常時ウォッチしておこうということで、わりと早い段階から海運会社に調査部ができたと思います。

その一方、日本の場合、特に他の業界もそうですが、大学でどれだけ海運を研究したかというと、そこそこ研究はされていたんです。やはり大学の先生というのは、ある意味で新知識ですから、明治時代から戦前にかけてははなかなか情報も少ないもので、外国でこういう状況になっているということを研究して、むしろ産業界を指導するという役割がかなりあったと思います。学者としても、例えば京大に小島昌太郎という先生がいまして、これが海運の運賃論とか海運同盟論とか一種のカルテル機構の研究をやっていた人がいました。その弟子に佐波宣平という教授がいましたが、どうもそこまでなんですね。その方が亡くなられたのはたぶん昭和40年代だったと思います。その弟子というのはまだ海運界に少しいて、その後山田さんという人が継いだということになっているけれど、われわれが教えを請いに行くというような研究はなされていないということです。

東京サイドでは、やはり一番のボスは脇村義太郎先生ですね。これは海運の研究、エネルギー、石油の研究で、よく勉強された人ですが、脇村さんも去年あたりに亡くなられました。そんなことで、研究機関とか大学とかでどれだけ進んだ研究がなされているかというのは、特にわれわれの印象では、ここに至ってとよりもむしろ昭和30年代以降進んでいません。それまで海運の世界はあまり変化がなかったんですが、技術革新が非常に激しく押し寄せてきて、例えば船型の大型化とか専用船化、コンテナ化が始まるんです。私が会社に入った頃は、たぶん35,000〜36,000トンの船はマンモスタンカーと呼んでいたんですね。それがアッという間に6万トンになり、10万トンになり、20万トンになってしまうという激しい変化が起こりました。それからコンテナという箱を船に積み込む革新的な荷役方式ができて、むしろ学者の方がついていけなくなってしまった。要するに、事実、実業の方がどんどん進んでしまうということがあったんだろうという感じがします。

 

 

 

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