最近、特に土・日曜日なんかは朝8時過ぎぐらいから渋滞が始まって、電気が消えるまで渋滞がなくならないです。今、今後これを続けるべきか、やめるべきかという議論がいつも町の中で起こっております。
これが、一の谷という郷土料理の店なんですけれども、ここがオープンするのが昭和39年です。この頃から日本というのはすごい高度成長で、こういう古いもの(茅葺き民家)は壊して、新しいもにのどんどん変えていったわけですね。ところが、この一の谷の経営者で水野五郎さんという方なんですけれども、「観光は地域文化の創造だ」ということを提唱されて、これからはこういうものが非常に大事になると。だからあえて、高いお金を出して移築してここに残すんだというようなことを言われたわけです。
足助屋敷というのは、昭和55年にオープンします。全部新築です。最初の計画では、これは農水省の補助事業でやるのですけれども、こういう国の補助金を使うのに茅葺きの施設や何かを使うのはけしからん、こんな燃えやすいものじゃ困るじゃないかということで、コンクリートに変えよということが国、お役所の考え方だったようです。しかし、この香嵐渓の中につくる施設として、やはりここにコンクリートの建物が建つというのは、非常に違和感があるわけです。なぜ茅葺きにしたかというのが、やはりこれからの風景づくりというのはこういう日本人の心になじんだ風景づくりでなければいけないだろうと、なおかつそういう施設でないといけないというのが、この足助屋敷の母屋なのです。そういう面で、先ほどの一の谷の茅葺きの移築民家が、ある意味ではお手本だったわけです。
これは足助屋敷の中の手仕事で、桶屋さんです。もう足助屋敷ができて20年になりますが、最初の職人で今残っているのは、この桶屋さん1人になりました。
これは昨年にできました亜細亜交流館という部分で、右側が萬萬館というイベントホールです。左側の黒い建物が工人館といって手仕事をする建物になっております。
アジアとの交流という視点から、大体3ヵ月に1回ぐらい、そういう国々から職人さんを呼んできて、手仕事などをやっております。ラオスの前はネパールから来ていただきました。秋は定番として中国から職人さんが来られます。これから後はインドネシアですとか、タイだとか、べトナムだとか、いろいろな国々の企画を進めております。
これが童門さんの評価する足助城です。お城というよりも、砦と思っていただいたほうがいいかと思います。このお城の大事なことは、当時の資料というのは何も残されておりませんので、発掘調査に2年余り費やして、多分こういう建物があったんじゃないかと推測して建てたお城です。
これは足助の大きな商家の1つです。こういう商家は今、みんな空き家になっております。
これは以前は旅籠だったところです。町並みには、まだ一般の人たちが生活している場でもあるわけです。例えば岡山の倉敷でありますとか、岐阜の高山などに行くと、こういう生活臭というのはもうほとんどなくなっておりますけれども、まだまだ足助の場合は古い街の中にも、こういう生活臭のある町並みが残っているわけです。
町並みに沿って流れる川が足助川という川です。この足助川は、役場の所で合流して巴川になります。この徳島も川に関する運動が、今盛んに行われているということですけれども、足助も昭和60年に足助の川を守る会という会ができました。これは町民たちが月1回、川の掃除日を決めて、その時に出て草刈りをやっているところです。