文学散歩
海の文学への旅
第4話 万葉集
〜遣新羅使の航海〜
尾島政雄(おじままさお)
岡安孝男(おかやすたかお)画
●歌にたくす使節団の心情
天平八年(七三六)夏、奈良の朝廷は朝鮮半島・新羅国(しらぎのくに)に使節団を派遣しました。すでにわが国は、推古天皇の六〇七年、小野妹子(おののいもこ)を隋に派遣、さらには舒明天皇の六三〇年から始まった遣唐使の派遣など、陸の周辺諸国との交流を積極的にすすめ諸国との友交を深めつつ、先進文物の輸入につとめました。この遣唐使は宇多天皇の寛平六年(八九四)、菅原道真の献策による中止までつづき、日本文化に図り知れない影響を与えたのでした。
当然のことながら、当時の造船・操船技術をもってしては万里の波濤を越えての航海は至難のことであったことは言うまでもありません。国の重い使命と強い期待を背負った使節団は、文字通り決死の覚悟で船出していったことでしょう。
天平八年の使節団もそうだったはずです。とくにこの時の使節団の旅は困難を極わめました。そもそも出立は四月で帰国は秋ころと予定していたのですが、都合で出発は六月に延び、途中順風にも恵まれず、ようやくたどりついた新羅では王や高官に会うことも出来ないという事態となりました。目的を達しないまま帰路についた一行は、今度は激しい季節風の時期とぶつかり、九死に一生を得てようよう帰国するという有様でした。加えて道中疫病に襲われたのか、大使の阿部継麻呂が対馬で死去するという悲劇に見舞われます。『万葉集』巻十五は巻の大半をさいて、この時の新羅使節団の動行を今に伝えてくれます。
冒頭の「目録」に次のように述べて巻の十五は始まります。
「天平八年丙子の夏六月、使を新羅国に遣はしし時に、使人らの、各々別(わかれ)を悲しびて贈答し、また海路の上にして旅を慟(いた)み思ひを陳(の)べて作る歌、并(あは)せて所に当たりて誦詠擦る古歌一百四十五首」
そして贈答歌十一首に始まり、使節団が帰国、「筑紫に廻(かへ)り来(きた)りて海路より京(みやこ)に入らむとし、播磨(はりま)国の家島(いへしま)に到りて作れる歌五首」まで旅の行程を追って百四十五首を掲載、海を越えて異国に使いした団員の心情を伝えているのです。
●妻恋い望郷の念に満ち満ちで
武庫(むこ)の浦の入江の渚鳥(すどり)羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
大船に妹(いも)乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましも
使節団の歌はまずこの贈答歌から幕を開けます。武庫の浦に棲むひな鳥が親鳥の羽に包まれるように私はあなたの愛に包まれているのに(使節に任命された)あなたに離れて、私は恋しくて死にそうですとうたう妻。いや、大船に妻も乗れるものだったら羽に包むように大切に持っていきたいものを、と答える夫。
いずれの時も家族との別れはつらいものです。ましてや行く手は怒濤逆巻く海のかかなたです。
一行二百人前後の使節団の船は、難破・武庫・明石・玉の浦と瀬戸内海を西に進みます。