乙女の一人に対する思いがこの歌を作りあげたのしょう。想像の産といえばそれまでですが、人麿の心の中にはかっての海辺での楽しさが確実に甦っていたはずです。
くしろつく手節(たふし)の崎に今日もかも
大宮人の玉藻(も)刈るらむ
大和に留まる人麿の想像は広がります。
今日あたりは手節の崎(鳥羽東方の答志島)で、手首にかざりの輪をつけた(くしろつく)女性たちがにぎやかに藻を採って戯れていることであろうと。これまたのどかな春の海の一点景です。そして戯れている女人の姿を想像する人麿の限りない愛情を感じるのです。
しかし静かなはなやいだ海辺を離れて沖に出れば、海は一変して荒々しい姿を見せるのです。ここは名にしおう伊良虞(いらご)(湖)水道です。潮流の早さに人麿の歌もおどります。
潮騒に伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)漕ぐ船に
妹(いも)乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
鳥羽の磯辺から答志島へ。さらに沖合い伊良虞の島(神島か)から伊良虞水道を臨んで伊良湖岬へと人麿の目は妹を追います。
外海に出て、潮鳴りの中漕ぎ進んでゆく船に、恋しい妹は乗っているだろうか。いやまさかあの荒々しい島のめぐりに乗ってはいないだろう、と不安視する人麿。
ふと私たちは、この歌に三島由紀夫の名作『潮騒』に思いをはせるのです。あの暴風雨の場面の島の様相を………。
前の二作に比べて人麿の筆は一転して緊迫の度を加え躍動していきますが、その底に流れているものは深い愛情の証(あか)なのです。
大宮人の海に対するあこがれ、そして荒々しい海に対する不安は、誰しもが簡単に行かれるところではないだけに、現代の私たちには想像を絶する強力なものであったでしょう。
●祈りと喜びと
万葉人は長い航海でもその心を歌に托しました。『万葉集』の情熱歌人額田王にも有名な歌があります。
熟田津(にきたつ)に船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
熟田津(愛媛県松山市北部)から九州に向けて船出しようとよい月(潮の干満に関連)を待っていると、潮がいよいよ満ちてきた。さあいよいよ漕ぎ出そうではないか――王の歌は力強く喜びの船出を宣言するのです。
造船・操船技術のまだ未熟の中で、長駆船出をしようという心意味が読み取れます。
長い航海、それも万里の波涛を越えて大唐の国に使いするとなると、これはもう大変な冒険です。
人々はただひたすら航海の無事を祈り、そして帰朝の喜びを率直に歌うのです。
大宝元年(七〇一)四十歳の三野連(みののむらじ)岡麿は遣唐使節に任命され対馬を船出します。
ありねよし対馬の渡(わた)り海中(わたなか)に
幣(ぬさ)取り向けて早(はや)帰り来ね
使節を送った春日蔵首老は海神に幣を捧げて無事の帰還を祈るのです。
同行した山上臣億良は大唐に在って本国に思いをはせます。
いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴の
御津の浜松待ち恋ひぬらむ
さあみんな、早く大和に帰ろう。あのなつかしの御津の浜の松が待っているぞ、と望郷の念を歌います。まこと海はさまざまな顔を見せて人間の心に問いかけるのです。(第三話 終)