このような状況であるから、その方どもに飯米を取らせることもできず、誠に不憫(ふびん)に思う」と仰せられて、一個村よりつき麦二升あてを集めさせ、都合一斗二升を私どもに下さいました。
八丈島の様子
内蔵助様の御在所は岡の郷というところで、家数六十軒ほどでございます。この島には岡の郷の外に五カ村あり、島全体では家数三百軒ほどあるそうです。
さて、私は内蔵助様へ「飯米には亀をゆでて乾かしたものをしたたかに用意しておりますので、この麦は、折角ですがお返ししたいと存じます」とご辞退申し上げましたが、内蔵助様は「紀州様の御領の者と申すことであれば、なお一層馳走したい気持ちが募る。というのは、われらは先年紀州様より御金を四度も拝領いたし、紀州様には誠にかたじけなく、ありがたく思っているからだ。例えそうでなくても、日本の者のことであれば米を取らせたいのは山々だが、島は以上のとおりであり米がないのだ。その麦としても、少しではあるが取っておけ」と仰せられるので、「有り難く存じます」と御礼申し上げ、麦を頂戴した次第です。
八丈島から下田へ
半月ほどを八丈島で過ごし、私どもは五月五日(六月二十二日)に八丈島を出船しましたが、内蔵助様も数艘の漁船とともに沖へお出になり、漁師どもが十本ばかり釣った鰹のうちの二本を私どもに下さいまして、「無事にて国元へ戻ることを祈る。今度は来世にて会おう」とお暇請いをなされまして、引き別れました。
こうして、五月七日(六月二十四日)に豆州下田(静岡県下田市)の湊に着くことができました。下田御番所へ内蔵助様よりことづかりました手形を差し出しましたところ、私どもの宿に庄屋宅を仰せ付け下さいました。そこに落ち着くと初めて生きた心地を取り戻しました。
その後、前々からの私どもの知人である洲崎村(下田市須崎)の利兵衛という人のところに厄介になりました。ここで、私どもが乗ってきた船を利兵衛に頼んで入札してもらい、金一両二朱(約一三万円強)で売り払い、陸路紀州への六人の路銭としました。また、下田の宿主と利兵衛の両人が往来手形を取ってくれました。
国元の紀州藤代へ帰る
下田を五月十三日(六月三十日)に出立しまして、同月二十三日七月十日)の晩に紀州名草郡藤代(和歌山県海南市藤白)の私宅に帰着、阿州渡河浦(徳島県海部郡浅川浦か)へ帰る五人の水主どもを一先ず私宅へ落ち着かせました。
それから、私は山越えで荷主の仁儀村(和歌山県海部郡下津町)の太郎助方へ参り、海難の次第を報告し、五人の水主の取扱いを相談しましたところ、太郎助は別儀なしと申してくれました。
五月二十五日(七月十二日)五人の水主どもは紀州和歌山(和歌山県和歌山市)へ向かいました。同地で阿州船を待ち、便乗を頼んで、便船の都合次第に国元へ帰ることになっています。
漂着無人島の奇木
私どもが流れ着きました島は、八丈島から三百余里(一、一七八キロメートル)己午(南南東)の方角にございます。その島にはいろいろの木がたくさんありますが、そのうちで取り分け見事に存じました木を、恐れながら、もし御用にでもお立ち申し上げたらと存じまして、二本切り取って持ちかえりました。長さ一丈二尺(三・六四メートル)本口末口にて六、七寸(一八〜二一センチメートル)もございます。
八丈島へ着きまして、船道具、二本の木、亀の甲などを乾かしておりましたのを、内蔵助様が御覧になり、「これは珍しい木である。御役船が帰ってきたとき、その方どもの無人島漂着の話をしても、船方衆には信じてもらう訳にはいくまい。その証拠のためであるから、一本われらへ預け置くことは叶わぬか。もし御用木になるような木であれば、御役船が帰帆のころ、紀州様江戸御屋敷まで届け申すであろう」と仰せられましたが、私は「御意に従い申すべきではありますが、私どもが無人島へ流れ着きました印に、国元の殿様へ差し上げ申すべきと存じまして、二本切り取り持ちかえりました次第ですので、その辺をご勘案方お願いします」と申し上げました。