“真白き富士の嶺 緑の江の島”のあの「七里が浜の哀歌」です。
哀しい出来事でしたが、九十年の歳月を経て、海に向かってこの歌を口ずさむと海のもつ限りない癒(いや)しを感じるのです。そういえば、文部省歌の愛唱歌?われは海の子?が発表されたのも明治四十三年のことでした。
相模湾の海は今日もすべてを受け入れて静かに波うっています。
海の癒し
さて倭建命ですが、弟橘の献身もあって無事東国征討も終え勇躍なつかしい奈良へと帰還の途につきます。
しかし、九州遠征から東国征討へと連戦、転戦でさすが剛毅の倭建も疲労は限界に達します。尾張を経て三重に入りますと、
「吾が足は三重の勾(まかり)の如くして、甚(いと)疲れたり」とのりたまひき。
と病を得て、鈴鹿の山越えの先、なつかしの故郷奈良を前に一歩も進めず、ついに臨終の時を迎えます。
『古事記』は、この場面をあやしいまでに哀切をこめて綴るのです。
そこより幸行(いでま)して能煩(のぼ)野に到りましし時、
国を思(しの)ひて歌日ひたまはく、
倭(やまと)は国のまほろばたたなづく青垣
山隠(こも)れる倭しうるはし
また歌日ひたまはく、
命(いのち)の全(また)けむ人はたたみこも平群(へぐり)の山の
くま白壽(かし)が葉をうずに挿せその子
この歌は国思歌(くにしのうた)なり。また歌日ひたまはく、愛(は)しけやし我家(わぎへ)の方よ雲居立ち来(く)も
緑したたる大和の国はなんと美しい国だ、その国に生きる者はかしの葉を髪に挿して精いっぱい生き抜いてくれと托す倭建。なつかしい故郷からは雲が湧き立っていると望郷の思いを謳う倭建――有名な国思歌(くにしうた)の場面です。歌い終わってすぐに倭建は波乱の生涯を終えるのです。
『古事記』は語ります。
倭建の霊魂は白千鳥となって海の彼方に飛び去ってゆきます。ここにもまた、大いなる?海?の癒しを感じるのです。
悲報を知って奈良から駈けつけた后や御子たちは切株に足を傷つけつつ、その痛さを忘れて飛び去る千鳥を泣きながら追います。
浅小竹原(あさしのはら)腰なづむ空は行かず足よ行くな
海が行けば腰なづむ大河原の植ゑ草海が
はいさよふ
浜つ千鳥浜よは行かず磯伝う
后たちは泣きながら歌いながら倭建の霊魂の化身白千鳥を追います。鳥のように空を飛べないもどかしさを嘆きつつ、困難な道に足を進めます。海を進めば水中の水草に腰をとられて追いづらい。千鳥は歩きやすい浜辺を行かないで磯伝いに飛んでゆきます。それでも后たちは歩きづらさを堪えて追いつづけます。この歌は今も天皇の御大葬の折に歌われると『古事記』は伝えます。
一度は河内国に降りた白千鳥は再び南の海の彼方に天翔けるのです。霊魂の不滅を信じて海に送るのでした。古代人にとって、海は畏怖とともに心の癒しの源として存在していたのです。『古事記』はそれを抒情的に伝えるのです。(第二話 終)