東京湾謎の大量重油流出事故
あの日“カタストロフィ”は本当に起きたのか?(その一)
(社)日本海難防止協会
主任研究員 大貫伸(おおぬき しん)
カタストロフィの発想
今から十月前、師走を迎えたばかりのある寒い日のことであった。社団法人日本海難防止協会の主任研究員である私は、昭和四十三年に作成された当協会の報告書「大型タンカーによる災害の防止に関する調査研究完了報告書」を一頁づつ丁寧にめくりながら、朝から調べごとに熱中していた。
一週間後に開かれる専門委員会の席上、ある発表を行うための資料の準備であった。その発表とは、ある海域において油流出事故によって生じるであろう「通常起こり得ない」最大級の社会・経済的損害の種類をあらかじめ想定し、それを定量的に算出する方法を紹介するというものであった。事故に伴う「通常起こり得ない」最大級の社会・経済的な損害のことを、われわれは「カタストロフィ」と呼ぶ。
例えば防災計画などの立案は、原則、そのエリアで「通常起こり得る」最大級の事故をあらかじめ想定し、当該事故に対応可能な方策がどうあるべきかを考えることから始まる。
東京湾の油流出事故を例にとる。「通常起こり得る」最大級の油流出事故とは、二十万重量トンを超える巨大原油タンカーから二万数千キロリットル程度の原油が流れ出したものとするのが油防除関係者の間では一般的である。東京湾内の係留施設を利用する最大級のタンカーを想定し、その載貨重量の九%をとった数字である。その根拠はこの報告書に隠されているのだ。すなわち「昭和四十三年度大型タンカーによる災害の防止に関する調査研究完了報告書」では、東京湾で通常起こり得る最大級の油流出事故を、
〈二十万重量トンの原油タンカーのタンク二つが破損し、当該タンクの積荷である原油のすべてが流出した事故で、流出量にすれば載貨重量の九%である〉
としている。報告書で述べられたこの見解が、その後四半世紀を経た今もなお、流出油事故に備えた防災計画などを考えるに当たっての基本要件の一つとして生き続けているのである。
異論もあろう。「二タンクのみならず、全タンクが破損する可能性もあるではないか……」「巨大タンカー同士が衝突したならば、流出量はもっと多くなるはずではないか……」こうしたさまざまな異論に答えるのがカタストロフィの発想である。
「通常起こり得る」と「通常起こり得ない」の違いは何であろうか。その違いは、当該事故の発生確率を定量的に算定できるのか、それともできないのかにあるといわれている。
「通常起こり得る」最大級の事故とは、当該海域における過去の海難発生状況やそれに伴う流出油量などから、ある程度は定量的にその発生確率を算定することが可能である。対して「通常起こり得ない」最大級の事故とは、少なくともその発生の可能性があることは証明できるが、確率についてはまったく算定が不能な「超ド級」の大災害のことを指すのである。
なぜ算定不能なのか。答えの一つとして、過去にそのような災害が当該海域において一切発生したことがないことが挙げられる。
ならば発生してしまったらどうするのか。無論、あらゆる資材・要員を駆使し、国をあげて全力の対応が行われることとなる。一国による対応のみならず、国際的な協力を必要とするケースも当然あるであろう。エクソン・バルディーズ号の事故がそうであった。例えあの米国でさえ、一国の力だけでは如何ともし難く、他国の協力を全面的に受け入れた。