この三隻は優秀船建造助成法の適用を受けた日本郵船の大型貨客船七隻中、欧州航路就航中の伏見丸、香取丸など旧型四隻の代替船として建造された姉妹船である。
戦後の昭和三十二年に三菱造船刊行の『創業百年の長崎造船所』に書かれた内容の一部「この三隻は当時日本郵船が発表した二五隻、二五万総屯にのぼる大造船計画の白眉として計画された船である。
ドイツのシャルンホルスト級や英のPO線、仏のMM線等の就航船に比べて遜色がないばかりか、大西洋の超豪華船クィーンメリーやノルマンディにもない全客室の冷房装置を施して、熱帯地方を快適に航行する画期的な試みは世界中の海運界、造船界は驚異の眼を見はったものである。
新田丸こそ支那事変以来、日本郵船が鋭意建造に当った国策優秀客船隊の先駆をなしたもので、姉妹船八幡丸、春日丸と共に船型、推進器(プロペラ)、機関、航海用具、船客設備、貨物設備などあらゆる部門に世界最高の設備を備えていた。
世界の何れかの国がすでに試みて優良斬新だと目(モク)された機器や設備の中で同船に備えられなかったものは一つもないといっても過言ではない。しかもすべてが国産品であった」と自負の記載がある。
総屯数一七、一二八屯の八幡丸は第一船新田丸と船体要目、設備等は大同小異の姉妹船で、昭和十五年七月三十一日に完成し、欧州航路は既に中止のため、第一船新田丸と共に北米航路で活躍した。
約一年間就航後同十六年十一月十日、海軍に徴用となり呉に回航し海軍特設航空母艦に改造と決定され、既に就役中の姉妹船春日丸(特設空母第一号艦大鷹(タイヨウ))に続く二号艦として改造に着工した。
翌十七年五月三十一日工事完了特設空母八幡丸が誕生し、直ちに連合艦隊附となり横須賀から南洋メレヨン島へ航空機他補給物資の輸送に従事、その間の八月一日に海軍省に買上げられ航空母艦雲鷹(ウンヨウ)となり、就役中の春日丸(大鷹(タイヨウ))及び呉で改造中の新田丸(沖鷹(チユウヨウ))と三隻同時に海軍に移籍となった。
その後横須賀港からトラックやサイパン基地への補給輸送に従事し、翌十八年十二月十五日に海上護衛司令部の所属となり船国護衛空母として活躍したのである。
昭和十九年八月十三日第一海上護衛隊に編入され、巡洋艦香椎(カシイ)、空母雲鷹及び海防艦五隻乃至六隻を一組とした護衛艦隊を組織した。
同年八月二十五日門司発の十八隻編成のヒ七三船団を護衛、参加船は比島救援部隊輸送船七隻と、星港(シンガポール)行高速油槽船十一隻で途中四隻が落伍、残り十四隻で南下した。
途中護衛空母雲鷹の艦載機が上空から索敵警戒を実施して、護衛体制の著しい向上に寄与し、同月二十九日高雄で数時間の仮泊補給の後、再び南下し九月一日マニラ沖で比島行四隻と分離、五日には無事星港に到着し大任を果たした。
復航の内地行は大型油層船五隻編成のヒ七四船団の護衛で、石油を満載した御室山(オムロサン)丸、あづさ丸等を南下時と同じ護衛体制で、九月十一日門司向け星港を出撃した。
南支那海中央部を縦断し北上中十六日夜半東沙島南方であづさ丸が被雷沈没、次いで〇〇四二空母雲鷹の右舷中央機関室と船尾舵機室に魚雷が命中し炸裂、必死の防水も甲斐なく、十七日〇七五五沈没となり四年二カ月余の生涯を閉じたが、船団は一時高雄に退避し態勢を整えて十九日に出港、同二十三日に無事門司に入港した。
松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)