レポート3] 協力雇用主に支えられて。
更生保護法人 播磨保正会主幹
赤鹿麗子
健二くん(仮名)は窃盗と家庭内暴力をくり返して少年院送致となった。父は亡く、母は入院しており、仮退院となっても他に適当な引受人がなかったため、当施設に帰ってきた。当施設に帰る少年たちの初回面接は必ず私が担当しており、「今日からここのお母さんだと思って、何でも相談してね。応援するから頑張るのよ」というのが常である。傷心の思いで帰ってきた健二くんを激励し、協力雇用主のG社で翌日から溶接工として働くこととなった。G社の社長さんは人間味のある人だが仕事には厳しい人なので、健二くんが何かトラブルを起こさないかと心配したが、彼は一度も弱音を吐かず、昼休み時間も練習を重ねて溶接の免許を取得した。仕事での頑張りが励みとなったのか、当施設でも問題行動を起こすことなく、一年半後には無事自主退会した。それから数年を経過した現在は、社長さんの立派な片腕となっており、後進の寮生たちの面倒見もよいとのこと。粗暴行為をくり返していた少年でも、周囲の温かい援助があれば立ち直れるものだと確信した。もちろん、寮生の中には無断欠勤や職場放棄、果ては迷惑行為に及ぶ者もおり、そんなときは職員が奔走して雇用主さんとの信頼関係の維持に努めてきた。だまされたり、裏切られたりしても、雇用主さんや職員が今度こそとあきらめなかったことが、彼らの自立につながったと思っている。
真琴くん(仮名)は傷害道路交通法違反により保護観察に付され、暴走族との絶縁を図るために当施設に委託されていた。当初は口数も少なく自分からは皆に近付こうとしなかったが、面接指導の結果、翌日から協力雇用主のH建設で働くことになった。雇用主さんからは真琴くんはなかなか筋がいいので将来が楽しみとのことであった。しかし、しばらくして無断欠勤、無断外出の後、無免許運転で電柱に激突。幸い怪我は軽かったが、この事件で真琴くんは少年鑑別所に送致されることとなった。「真琴くんならもう一度面倒を見たい」との雇用主さんの意向もあって、審判の結果当施設に再委託となり、少年院送致も覚悟していた彼は喜んで「今度こそ頑張ります」と力強く決意を述べていためが忘れられない。その後真琴くんは一念発起し、雇用主さんのもとでまじめに働き、母親に送金も続けていたので、母親の喜びはひとしおであったと思う。ところが7か月くらい経過したころ、飲酒の上、通りすがりの会社員と些細なことで口論となり、相手に重傷を負わせてしまった。真琴くんの更生を確信していた矢先のことだけに、これまで積み重ねてきたものが音を立てて崩れ去る思いがした。私は叱責を覚悟で、被害者を見舞った。心から謝罪したところ、逆に励まされ、意気消沈していた私は目頭が熟くなった。真琴くんはこの傷害事件で少年院送致となったが、幸い短期間で仮退院となり、それから数か月後に彼があいさつにきたときに母親の死を知らされた。
それから数年後、真琴くんが家族を連れて訪ねてくれた。母親の七回忌を務めて急に私の顔が見たくなったという。子どもは4歳と2歳となり、孫のように愛しかった。彼は仲間と一緒に仕事をしているとのこと。リーダーシップを発揮しているらしく、逞しく成長していた。
その年の暮れ、真琴くんらとクリスマスを兼ねた食事会をしたが、そこには父親と子どもたち、その全員が男の子でそれぞれ父親の面影を映し、澄んだ瞳を輝かせながら、まるでお婆ちゃんに話し掛けるようにいろいろと話してくれた。この道を歩み統けて30有余年、このとき初めて更生保護の真髄に触れたような充実感があった。その後も彼らからの近況報告は続いているが、この不況下にあっても仕事は忙しいという。それは彼らのたゆまぬ努力の積み重ねであり、その弾みをつけていただいた協力雇用主の変わらぬ御支援の賜物と心から感謝している。