出所:稲見悦治『都市の自然災害』(古今書院、1976)213頁
伊勢湾台風災害は、災害対策基本法制定の誘因となったが、市域の1/2にあたる120km2が浸水した名古屋市では、翌年1月、「名古屋市災害対策協議会」を発足させ、被災原因の究明と「名古屋市災害対策要項」を策定し防災都市建設に着手、国に高潮対策と治山・治水事業の推進、貯木場の移転、鉄道高架化を要望するともに、市施行によって、区画整理事業との合併施行による土地の嵩上げ、災害危険区域の指定による建築制限、避難施設整備、公共建物の耐災・高層化等を行なった。
[長崎市での水害復興] 1980年代の前半には、大規模な災害が頻発したが、1982年7月の長崎市の水害は、梅雨末期の集中豪雨によるものであった。
長崎市では、市内を流れる中島川と浦上川が氾濫し、中心商業地が水没した。中島川を管理する長崎県では、「長崎防災都市構想策定委員会」を設置し、長崎都市圏の交通体系等の巨視的な側面も視野に入れた防災都市構想の策定にあたった。審議の途中、中島川に架かる重要文化財:眼鏡橋の現状復旧予算が文化庁から認められたことにより、復興計画案の選択肢の幅が狭められ、最終的には、眼鏡橋の両側にバイパスを建設し、中島川の洪水流量を増大するという案に落ち着いた。
3. 津波災害からの復興と再建
[三陸地方での津波災害復興] 明治維新以降、三陸地方は1896年の「明治三陸津波」、1933年の「昭和三陸津波」、1960年の「チリ地震津波」と三度にわたる大津波に襲われた。津波による被害を根絶する最良の手段は、市街地の高地移転であり、「昭和三陸津波」の際には、79%にあたる107集落が高地移転した。しかし、用水の不備や生業の不便さから、ほとんどの集落は従前地に戻ってしまった。
岩手県田老町田老は、「明治三陸津波」で全戸流出し、「昭和三陸津波」でも全人口の約半数が死亡した。集落の復興にあたっては、高地移転等も考慮したが、最終的には現地復興とした。そのため、耕地整理による高台に通じる街路の整備、警報器・避難場所の整備、長さ1,350m、海抜10.65mの防潮堤の建設、防潮林の造成等の多面的な施策を実施した。四半世紀を要して建設された防潮堤は、その後の市街地拡大により、現在ではX型に全長約2.5kmとなっている(図3)。