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そして、法廷通訳人とはどうあるべきかを真剣に考えはじめた。

「今考えれば当たり前のことですが、まず、被告人質問だけでなく、裁判官、検察官、弁護人の会話ややり取りもすべて被告人に通訳・解説しなければと思いましてね。となると、法律知識も欠かせない。また、中立の保持や秘密を守る職業倫理も必要。でも、勉強をしようにも、当時は要通訳事件のマニュアル的なものも存在しなければ、専門的な訓練を受ける場も皆無だったんです」

そのため、手探りで法廷通訳の技術を模索しなければならなかった。

「とりわけ、通常の一対一の通訳や会議通訳とはまったく異質の通訳だと思ったのは、法廷通訳人は、被告、弁護士、検事、裁判官と一人で四役をこなす俳優のような役割を果たさなければならないことでした。というのも、通訳の機微が判決を左右しますから、たとえば、弁護人が“これは君のなんだろう?”とかばうように言うときには、弁護人になり切ってソフトに言わなければならないし、検察官が“これ、君のだろう!”ときつい口調で言ったなら、そうしたニュアンスを伝えなければならない。そういうことを全部クリアして、しかも自分の解釈や解説を加えずに正確に通訳する必要もある。これはものすごく大変な仕事だと、やっているうちに気が付きました」

こんなふうにして、試行錯誤をくり返しながら技術を身に付けていった長尾さんだったが、当時の彼女にとって、法廷通訳の仕事は決して、楽しいものではなかったという。

まず、一民間人として今まで平穏に暮らしてきた日々からすれば、目の前でくり広げられているドラマ(裁判)は衝撃が強すぎた。特に、東南アジアからの出稼ぎ、いわゆる“ジャパ雪さん”と呼ばれる人たちの裁判には心を痛めた。

「立場的には中立とはいえ、やはり事件には入り込みますからね。純粋に家族を助けるために大変な思いをしてきた人たちが裁判にかけられるという現実。それは、社会の暗部を見るようで気が重いばかりでした。しかも、トレーニングなどの養成の場も含めて、通訳人に対する理解も協力もないにもかかわらず、常に百パーセント完壁にできることを要求される。こんな状況ではとても務まらないと、辞めようと思ったことも一度や二度ではありませんでした」

 

 

 

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