3日間の宿泊訓練が終り先生から3週間の謹慎を言い渡されました。2回目は友達のお金を3百円・4百円を2回盗って一週間の謹慎、三回目は学校外の音楽祭のチケットを母校の中学生に売って謹慎。三回も謹慎処分を受けた者は学校の創立以来初めてだ。何故注意されても同じ過ちを繰り返すのか、もう今回は駄目かもしれないと言われた時は流石の僕も体が震えました。
ギターをどうにかして僕も欲しい、自分が音楽に打ち込む事で少しは落ち着けたらと、父母の同意を得て注文しました。一週間してギターが届き、嬉しくて抱いて寝たい程でした。寒い冬も気にならず、毎日練習して10日間位で曲らしい音が出るようになりました。この楽しみの御蔭で1年は無事終えて2年に進級できました。2年の1学期に、心の緩みから友人がトイレでタバコを吸って見つからないので、少しくらいならバレないだろうと、ほんの1口・2口吸った所に運悪く先生が通りかかられ、臭いがするのでその場を目撃され、早速自宅待機となり職員会議では退学と決まり、校長先生の最終決裁を待つ事になりました。10日待って呼び出しがあり、僕の運命が左右される日となると思うと、心が引き締まり車の中で話す順序について母の説明も上の空で聞いていました。もう許してはもらえないだろう。悪いと思って10日間本堂で仏様に手を合わせて反省した気持を先生方にお詫びする事で頭の中は一杯でした。担任の注意が10分程あって、校長室に案内される先生の厳しい表情を見て、駄目だと感じました。いつもの優しい表情がなく、母に僕の自宅待機中の生活態度、4回目の謹慎について今後の保護者の考えを尋ねられました。「本校では今迄こんな例はありません。他の生徒達に対しても影響は大きいです。自主退学をお勧めします」と話された時に、母が「校長先生、この子は本気で愛された経験が薄いのです。今やっと自分の姿を見い出しています。悪い事はこの子に非があります。この子の将来の為に今回迄助けて下さい。」と泣きながら頼んでくれるのです。僕の事で母が一生懸命頭を下げてくれる姿に「校長先生お願いします」と頭を下げました。
その時、人間は同じ過ちを繰り返さない事を、多くの方々の善意の計らいで今の自分のある事を知り、無事卒業する事で御恩返しをしなさいと諭されました。沢山の今の思いやりの心が温かく伝わって来ました。そんな僕に囁くのです「今、相手の話にじっと耳を傾け自分自身をとり戻しなさい」と。僕は悪い事をしても又許してもらえるという甘えがありました。意志の弱さから友達の誘いに流されやすい短所と、安定した生活に慣れてきた今いる自分の存在を忘れて迷惑ばかりをかけ、僕の将来を傷つけてきた自分が恥づかしくでなりません。再び学校に通えるのも父母の優しい思いやり、励ましがあった事を感謝しています。
「報恩感謝の心で」
野母崎町 三根信道
私は、昭和38年に長崎の乳児院から里子として大村市にある専念寺で生活することになりました。そのとき、私は2歳だったそうです。
母が今でも笑いながら言いますが、私はいつもオシッコをおむつの中にしかできなくて、おむつをはずすとどうしても出すことができなかったそうです。
昭和43年に小学校に入学。先生が名前を呼ぶとクラスの中で一番大きな声で返事をして、みんなを喜ばせていたそうです。
小学校の6年間が無事終了し、新しい玖島中学校へ進学いたしました。毎日スクールバスで通っていましたが、このころの学校生活が一番楽しく、今でも良く同窓会を開いています。