そうした御幣の古義が、国譲りを象徴する神話の鉾と融合し、奉幣の儀という作法が案出されたのではないか、と。それは神前の御幣が、神話の鉾をなかだちに、祭のなかで芸能的なかたちを獲得していった経緯とパラレルだったはずだ。奉幣とは神に奉納する幣帛であったように、そもそも芸能も一面で服属的な性格を孕んでいたから。
張り詰めた静寂のなか、鉾を手にした当屋神主の、舞とも儀礼ともつかぬ様式的な動きの向こうに、神話の幻景が明滅する―。神話からの強い磁力を受けて、鉾との婚姻を果たした御幣は、ここにあざやかな変態を遂げたのだった。<和光大学教授>
[テ?
1]村松貞義家文書、豊根村教育委員会委託本。なお原文は、宛字・誤字が多く読みにくいので、適宜に通行の用字に改め、カナはひらがなを用いた。注7]の「神送生霊死霊祭文」も同様である。
2]花祭の起源、すなわち<花>の本地を語る「花の祭文」群に似たような詞章がある。天竺・須弥山の聖木=多羅葉は四節を悟る木で、聖者がその木を切り休めると、五方仏の本地となり、残りの木から蓮華の花・樒の花などが作られ、さらに残った枝から、「今日の大宝蓮華の花」「御一役(おんいちやく)の花」が作られた……。こうした、天竺に由来する<花>の起源譚の原型は、大神楽の祭文「若子の注連(しめ)」に求められる(拙稿「神楽の儀礼宇宙―大神楽から花祭へ・下の一「花祭浄土変・前篇」『思想』97年7月)。
3]「七・五・三」の聖数は、注連縄を縒る作法にも用いられた。彦山の「修験注連口決」は、注連縄を張る作法に「九種別」あるとし、「諸神祭精進の時」の「七五三」を「本源」としている(『彦山最秘修験印信口決集』)。また『修験故事便覧』「注連」の項は、注連縄の濫觴を神話の「端出縄(しりくめなわ)」とし、吉田兼倶の説を引いて、注連とは、打たない藁を左縄になって「七五三の数に分つ」もので、合数の「十五」は、「天道」が十五日ずつ「左旋」に「運転」するからと述べている。
4]花祭では「切り草」と称して、厳修された。ここは参考までに、修験道の「祓切の大事」「神道柏手の祓」をあげておく(『修験道章疏』一「神社印信」)。
○祓切りの大事
盤板加持。 金剛合掌。
この板をつげの板とは誰が詠みし 悪魔を拂ふ悪多良の木を刀加持。 同印。
手に取りし刀を何と云うやらん 文殊作りし不動倶利加羅
串加持。 同印。
この串は高天原の生まれ草 神代といふに逢ふぞうれしき
紙加持。 前印
神はみな紙に納むるものなれば 紙に成りても神の形よ
払加持
祓立つここも高天原なれば 払ひ捨つるも荒磯の神
払ふ時
年を経て身を妨げる荒御前 皆去り給ひ千代を富ません
払ひ納め
荒磯に三五七波の音聞けば 魔王鬼神は速く退く
○神道柏手の祓
先三古印。 三息吹。
神風ソワカ三毒を吹き払ひ 残る心やあまとなるらん
中指直竪。
高天原にあらゆる神の集まり玉ふ 観念 五指を伸して幣と観ず。
わが手にぞ神の木綿しで切り懸けて
払へば残る罪も有らじな
右の手を以て三反打ち払ヒ三反
柏手三度 三反 弾指三反 三反
已上
5]周知のようにいざなぎ流では、法流や太夫によってその作法は一様ではない。本稿では、市宇(いちう)出身で大栃(おおどち)在住の小松豊孝(とよのり)太夫の作法を紹介した(本文での引用は、すべて小松豊孝筆録『伊弉諾流幣束集』による)。
6]このあと、五方五仏の真言を唱え、五印をかける。「米ツブを紙の上に落とす。印観は、花の印ではりおこす。和合の印と岩の印を三ツ打って囲ふ」(注5]、伊弉諾流幣束集』)。
7]豊根村教育委員会委託本。