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それに船が動力化されてくると、漁場も相対的に近くなってきて、海上生活を続ける必要もなくなる。陸で暮らし、出漁することが可能になってきたことも影響していよう。また、教育を受けた結果、陸の仕事に転向するものも増加したし、家船の中でも商船に変るものもあった。能地漁民が移住した漁村のひとつ、大分県の都留では明治の終り頃から、魚を運搬するイサバ船に変る船が多かったそうである。それが九州と大阪の間の石炭輸送が盛んになると、船を大きくして石炭運搬船に変って行ったという。こうしたさまざまな理由で家船は瀬戸内海から姿を消していったのである。

しかし、夫婦だけで旅漁にでる夫婦船なら、広島県豊浜町豊島の宮之浦にまだ残っている。宮之浦は明治の初め頃はわずかな人家しかなかったが、各地から漁民が移り住んできていつのまにか大漁村になった家船漁村である。山口県の周防大島の沖家室には、戦前には冬になると豊島の家船が良く寄港したという。沖家室で水を補給し、洗濯もし風呂を借りて、付近の漁場で河豚釣りに従事していたそうである。その豊島の家船を、同じ漁民である沖家室の人は、やや軽蔑した眼で見ていたと言う。豊島の家船は男所帯の船が多く、その立ち居振舞いが、嫌がられたのかもしれない。しかし、昭和五十七年の夏、私が沖家室を訪ねた時、二隻の豊島の漁船が港に寄港していたが、それには夏休みのこととて、夫婦と小学生の子供も乗っていた。船も大きく、畳を敷いた座敷もテレビも備えた近代的な船であった。

 

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吉和浦に建つ漁民アパート。漁民家族が住む

 

その頃は沖家室で薬屋を営む木村新之助、頼子夫妻が親身で豊島の船の面倒を見ていた。また、種子島の太平洋岸の港を訪ねた折には、湾内に三隻ばかしの夫婦船が停泊していた。それもサワラを釣りに来た豊島の船であった。漁法も出漁先も変り、また船所帯の形態も変ったが、家船の特徴のひとつであった夫婦共働きの出稼ぎ漁業を、豊島の漁船はまだかすかに今日に伝えているのである。

 

私がまともに話を聞いた家船漁民は、残念ながら箱崎きくのさんだけである。きくのさんには再訪を約束していたが、果せぬまま二十年がたってしまった。年齢からすると、きくのさんは今頃は異次元の海を旅しているのでなかろうか。きくのさんは、ぶらりと箱崎を訪れた風来坊ような私になんの疑いも抱かず、家にも招いてくれた。苦労話を明るい調子で話すきくのさんの話しぶりは若い娘のように華やいで、心惹かれたものであった。私は彼女以上に生き生きとした年配女性に出会ったことがない。きくのさんの魅力、それは、見知らぬ土地を歩き、漁をし、時には船に住まう家なしの特異な漁民との理由だけで、心ない村人から冷たい視線や言葉をあびつつも、それに耐えて海に生きた家船漁民ならではの、人に優しい、広々とした心の醸し出す魅力だったように思える。きくのさんの人生とその海上での日々を、もっとお聞きしておくべきであったと、今頃になって私は悔いている。

<海黎舎同人>

 

 

 

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