◎北前船と御手洗◎
幕府直雇いの特権的な城米輸送体制がくずれ、ようやく塩飽廻船にも衰退のきざしが見え始める一八世紀半ばのころ、塩飽諸島の西方約八○キメートルの芸予諸島の一角に、急激に人口が増えはじめた町があった。大崎下島(広島県豊町)の東端に位置する御手洗(みたらい)がそれである。河村瑞賢によって西廻り航路が開かれ、塩飽発展の基礎が固められたのが前記のように一六七二年(寛文十二)であるが、御手洗に初めて人家が建ったのは、それよりわずか六年前の一六六六年(寛文六)のことといわれる。その後、急激に人口が増えはじめ、約五〇年後の一七一三年(正徳三)には、町年寄が設置されるほどの港町に発展していたという(脇坂昭夫「近世港町の構造」『広島大学文学部紀要』九)。一八世紀における塩飽の衰退と対照的な御手洗の興隆ぶりを確認することができよう。
このような御手洗の港町としてのめざましい発展の背景には、西廻り航路を行き来する船舶の変質があった。すなわち、本来幕府の城米輸送のために開かれた西廻り航路に、元禄期以降の商品作物の活発な生産を背景にして、城米以外の一般商品の輸送にあたる北前船の往来が頻繁になってきたことである。
北前船については、多様な理解のしかたがあるが、ベザイ船といわれる千石積も可能な大型帆船を利用して、蝦夷地や北陸地方と大坂の間を日本海・瀬戸内海を経由して往復する商船というのが、最も一般的な北前船像といえよう。