図6]配石遺構の立石がならんでいる様子(部分・同右)
(このように見てくると、縄文時代のある位相でみられた幻像(ヴィジョン)と胎齢四週目の胎児の母体内映像写真はほぼ相同である。これには驚きを禁じえないが、何故まだ六ミリの大きさにしか成長していない胎児像を描けたのかという質問を受けるのは当然であろう。スタニスラフ・グロフが向精神薬やある種の身体技法で実証的に明らかにした<分娩前後のマトリックス>においてみる幻像でそれは可能であり、特にその母胎と胎児像が相互転換することはここで重要な示唆となった。彼はその位相を個人的無意識と集合的無意識の境界面であるといっている。グロフはこの位相で見るヴィジョンとその変容が古代社会システムに関連する神像・神話・儀礼に大きくかかわっていることを指摘している。)
そしてこの一六メートルの丈に配石画像化された胎児の形態を考える上でもう一つ重要なことがある。寺地遺跡は、支流にヒスイ輝石を産出する姫川の流れ出る糸魚川市と、やはりヒスイ原石が産出、露頭する青海川の河口の中間に位置するヒスイ海岸に位置していて、縄文中期後葉からはヒスイ製品を加工していた工房跡の見つかった玉作(たます)り集団によって担われていた土地だったのである。
現在、ヒスイの産出地は全国で数ヵ所知られているが、縄文時代のヒスイ製品は藁科哲男氏の行った蛍光X線分析による波長の解読によれば、全て姫川(松川、楠川、大所川、小滝川などの支流より運ばれたもの)、青海川産のものだったのである。つまり北は北海道から南は九州まで出土する縄文時代のヒスイ製品はこの地域で産出し、海岸にうちよせられるヒスイから作られ、全国に配布されたものだったのである。
そのヒスイ製品流布の総本山の一つ、寺地遺跡の配石画像の形は、縄文後晩期にさかんに制作され、配布されるヒスイ勾玉を大型化した形態でもあって、だから全国の晩期の墓地より出土する個々の勾玉のもっている他界観をもさし示している可能性がある。縄文時代の勾玉は、弥生時代以降のものと異なり、頭部前面にあたる位置に刻み込みが数列あり、それはやはり胎児の魚の段階にみられる鰓裂(えら)の表現に比定される(図3])。
さて、この胎児の形態をした配石遺構のすぐ北西側には、石で組まれた墓の中に海砂を敷き、その上に遺体を納めた組石墓群と、木柱を円形に数本建てたウッドサークルが二ヵ所あり、死者の転生をうながすヒスイ原石や未成品が千箇近くみつかっている。こちらの一帯は一次葬の墓地(埋め墓)であり、ここで死者の肉体が腐蝕し、白骨化した後何年か後に取り出し、焼骨した二次葬の墓地(詣り墓)がこの配石遺構であると推定される。
そして胎児の形態をしたその配石遺構の中で球形の心臓原基(心筒。まだ左右心房、左右心室に仕切られておらず球形である)を模した三重の環形の直径二メートルもある大型炉の中からは人間焼骨(一一個体分)、猪、鹿らの動物の焼骨、ヒスイ原石の焼かれたものに混じって注目されるものに、鮫一体分の焼骨、それと鮫の椎骨を加工した耳飾りがみつかっていることである。耳飾りは土製が普通であるがわざわざ魚の椎骨、それも鮫のものを用いていたこと、また二次葬の人骨を、これまた鮫一体分と一緒に火葬(縄文後晩期には二次葬の人骨を動物と一緒に焼く火葬がおこなわれている)していたのである。この注目される人物は寺地では鮫人と呼ばれるのにふさわしい人物である。