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里曳きの先頭を行く御船

 

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御柱の先端を三角錐に切り落とす

 

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御柱の先端

 

この行いを「冠落(かんむりおと)し」という。

こうしてみると、これらの山作衆の奉仕は、皆「木」に関わる仕事である。冠落しを「木」に関わる奉仕を司る一団」山作の最後の仕事とし、御柱が見事社の四隅に鎮まる。

山作の仕事は、前回六年前の御柱祭終了後、その年内に行われた見立ての奉仕に始まり、当年の御柱の祭りにおける冠落しまでが一連の奉仕であったといえる。(御柱の建て替え循環サイクル図2]参照)

これに前後して、今度はもう一つの集団の奉仕が始まる。「山出し」終了後の四月寅(申)日(現在は土・日曜日)を選んで「里曳き」に備えてそれまで社に建てられていた御柱を倒し撤去する「御柱休(おんばしらやす)め」が行われる。

この奉仕を行うのが、諏訪市中州中金子に鎮座する「八龍神社」の氏子衆である。この一団は古来より御柱祭においては、諏訪神社上社の本宮と前宮の境内の四隅に鎮まっていた八本の御柱を倒し、また新しい御柱の曳建てに際してはその「穴掘り及び穴埋め」、建てたあとをつき固める「根固め」という特別な役目を負っている。この八本の古い御柱は、氏神である八龍神社に納められることになっている。記録としては江戸時代の後半に書かれた『諏訪郡諸村並旧跡年代記』に「御柱建穴掘埋ハ中金子人足、古キ御柱ハ同村エ被下候」とあり、また八龍神社は嘉禎三年(一二三七)の奥書のある『祝詞段』には「金子ニ鎮守ハチリャウサンソン」と見えている。

里曳きの直前に撤去され八龍神社に納められた古い御柱は、里曳き終了後に行われる「古御柱祭(ふるおんばしらさい)」を最後に、今では希望者に貰われて行く。したがって中金子八龍神社の氏子衆の奉仕は、新しい御柱の穴掘りに始まり、次回六年後の御柱の祭りに行われる「古御柱祭」までが、一連の奉仕であると言えるだろう。

一本の御柱は、寅または申年に行われる「見立て」によって誕生し、十三年目に行われる「古御柱祭」で御柱としての役を終えることとなるのであるが、その一連の流れの中で御柱建立を境に、前半の奉仕を山作衆、後半の奉仕を中金子八龍神社氏子衆が取り仕切っている。(穴掘りは、御柱を休めるためにも必要であり、この時ほとんど掘りあげてしまうので、穴掘りの奉仕は、建立以後、後半の奉仕ともいえる)この二集団の存在なくして御柱の祭りは成立しないのである。

御柱行事の中でこれほど重要な役目を民間の集団が何故担うようになったのだろうか。

明治の廃仏毀釈以前の神社信仰は、仏教、道教、陰陽道等と習合しながらそれらの理論によって祀り方も変化してきた。そのなかで「陰陽五行思想」の生命理論によって選ばれたのがこの二つの集団であったのではないかと考えられる。現在も古態を守り伝える上社の御柱の祭りにそれを探りだしてみよう。

 

 

 

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