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その時から何も変わっていないのである。私はいよいよ落胆した。

取材とは目的によって見える景色も変わってくるものである。この時の取材タイトルが「戦後十二年目のベトナム」であったら、どんなにフイルムが回っていたことだろう。しかし、私はこの時、違った意味で戦争に対して怒りを感じていた。いま村で出会う若者は「戦略村」で生まれ、殺し合いを見て育ち、兵士にとられ殺し合いを強いられてきた。彼らは伝統的文化などカケラもない時代を生きてきたのである。旅の終盤、現在のコントム省ダクトー県にセダンの人々を訪ねた。ダクトーは米軍の特殊部隊の基地があり、その攻略を目指した解放戦線が初めて戦車を投入した激戦の地である。ここでも訪ねた村の多くは「戦略村」から解放された人々の集落であった。この旅での成果は、戦争中の政府軍とアメリカ軍の基地がいかにたくさん存在し、その数と同じ数の「戦略村」が存在したという事実を直に確認したということになりつつあった。

実は私がこの地での取材を始める五〇年程前の一九三八年、オーストリアの民族学者、ベルナツィークがビルマ、マライ、タイを調査し、仏領インドシナにも足を延ばしているのである。その著書『黄色い葉の精霊』(東洋文庫108)に当時のベトナムの中部高原の様子が記されている。タイトルからしても当然だが、本書はユンブリ(ピートンルワン)を主題とし、さらに出会った他の多くの民族も紹介しているため、残念なことに中部高原に関する記述は多くない。

 

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セダン人の村には、柱の頂に巨大な鳥が舞っていた。依代の一つなのだろうか

 

それでもボンメトート、プレイクーそしてコントムを訪れ、当時のフランス統治下の様子を記録した部分は実に興味深いものである。それはアメリカ大陸で原住民に対して行なわれた蛮行と全く同じ事が行なわれてきたのである。西部劇の世界である。それから、さらに四〇年近くにわたって人々は激しい戦禍にほんろうされてきた。かつて中部高原は巨木が生い茂る大森林が広がっていたという。そこで自然とともに誇りに満ちたくらしをしていた人々。その独自の文化は、文明国といわれるとてつもなく粗野で悪知恵に長けた人間集団によって粉々にされていく様子がよくわかる。

さて、ダクトーでの日程を終え、翌日はハノイヘ戻るという朝、荷造りをしているわれわれの所に、「収穫祭を開いている村がある」との知らせが届いた。ジープでやっと移動できる山道を三〇キロ、セダン人の小さな村に到着して、私の中部高原での仕事の様相は一変した。そこは解放戦線側の村で、戦争中は山中を移動することで攻撃を逃れてきた村であった。中央の広場に一本の柱がそびえている。

 

 

 

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