この場に降り立ったインドラ神は、国の平穏を保障して王と民を守護し、天空にあって降雨と陽光をコントロールする神として、作物の豊穣を恵むと信じられている。伝説では、この季節の長雨を止め、穀物を実らせることを約束したという。具体的には、すなわち穂ばらみをさせるのだと、私は考えている。
八日間のインドラ祭の間には、生き神クマリの山車巡行祭および、冥界の王としてのインドラ神に関わるネワールの人々の死者供養が同時進行する。
クマリの山車は三日間にわたりカトマンドゥ旧市街の下町、上町、中心部を巡り、人々に生命の力を与える。国王は初日に王族、政府高官、外交団を従えて旧王宮のベランダに立ち、クマリの山車に礼拝する。最終日には館に入ってクマリから祝福のティカ(額につける赤い印)をうける。このことは前マッラ王朝以来のネパールの守護神であるクマリ(=タレジュ女神)が、シャハ王に統治の認可を与える儀礼であると考えられる。
このようにインドラ祭は旗柱を立てることによって神々の王インドラを迎え、その吉祥な宗教的磁場においてさらにクマリに宿る大女神ドゥルガー(→タレジュ女神)の臨席を得て、王権力の更新、王国の秩序回復、繁栄を祈ることを目的とするものである。
『占術大集成(ブリハツト・サンヒター)』(注2])に「インドラの旗、鉄杭、柱が倒れたりすると、……王の死がある」と記されているように、インドラの旗柱は王自身の命運をも象徴している。おそらくは古代リッチャビ王朝から中世、近代を通じて王権と不可分の関係をもってきたインドラの旗柱祭祀の無事な遂行は、現在もなお憲法に「ヒンドゥー王国」と規定されているネパール王国の秩序に対し、無視できぬ社会心理的な影響力をもっている。
それ故に、インドラ祭は王国の聖と俗の権威を結集して挙行される。その中心核に、インドラの旗柱が屹立している。
◎ビスケート祭
カトマンドゥ盆地の東の端の都市バクタプルは、初期中世マッラ王国の都がおかれていた、由緒ある古都である。
ここでの柱建て祭りは、ネパールの公式暦であるビクラム暦の大晦日と新年元旦の二日間のみ行われる。大抵の祭りは太陰暦に従うのだが、これは太陽暦で行われることに意味がある。
チャイトラ月大晦日(四月一二日か一三日)の夕方、市街地の南のはずれ、ハヌマンテ川に面した広大なヤーシン・キャー(柱の広場)に、三六ハート(注4])以上はある立派な松の柱が立つ。柱にはインドラ祭同様の吉祥の模様が描かれた長い幟が吊り下げられるが、これが二本あることが特長的だ。
13]柱に吊された二匹の邪悪な蛇を表すといわれる幡(はた)
柱の先端には常緑樹の束がくくりつけられ、人々に聞くと、人の頭だという。また柱の上部には十字架状に腕木がとりつけられており、全体として人体を表わしている。“柱の神”とよばれているともいわれる。(注5])
しかし人々がまず語るのは、二本の幟が蛇を表わしているということだ。一般的な起源譚によれば、神話時代この国の美しい王女が結婚するのだが、翌朝になると夫は死んでいる。新しい夫が選ばれるが、翌朝再び死体で発見される。このようなことがなん回も続いた後、一人の勇敢な王子が王女と寝所をともにすると、夜中に王女の鼻から二匹の小さな毒蛇が出てきて大蛇に変身したので、剣で切って捨てた。王子はこの国の王となり、二本の大蛇を下げた柱を建立する祭りを始めた。