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しかし、この試みはすべての数値が一致することなく失敗に終わった。

道路幅は、3間半(6.3m)、宅地は、その両側に平均間口5間(9m)、奥行き17間(30.6m)の短冊形に割り付けられている。京橋通りから入ってゆくと、どんつきがあり、通りが見通せなくなっている。(写真5-1、写真5-2)また、通りと通りが交わる十字路に立つと城を見上げることができ、城の大きさ、そして君主の偉大さが実感できるようになっている。

5-1-2 1975年の町なみ調査

写真5-3は1975年に撮影されたもので、写真5-4は1999年10月に撮影したものである。京橋通りが拡幅され、キャッスルロードとして両側の町家も立てかえられたため景観は大きく変貌した。写真5-1、写真5-2も同様のもので1975年にはどん突きに「かどや」が建っているのがわかるが、1999年には「かどや」はなくなり建てかえられている。写真5-5は1975年、写真5-6は1999年の上魚屋町通り、写真5-7は1975年、写真5-8は1999年の下魚屋町通りを撮影したものである。これを見ると、20年前と比べて町なみにばらつきがありかなり変化したことがわかる。2階の高さが高くなったせいで道幅は変わっていないにもかかわらず、道幅が狭く感じられ、圧迫感のある空間になってしまった。1975年の調査では江戸期の町家と思われるものが、100軒ほど残っていたが、現在では42軒と一気に減少した。1975年の調査の頃は、まだ低い二階と格子戸の家が建ちならび、軒の線のそろった町なみであったが、現在こうした景観は大きく損なわれている。これは、大半の町家が建て替えられたことが原因だと思われる。しかも古い町家を活用したり、保全したりするのではなく、すべてを取り壊して全く新しい家や、ハウスメーカーに頼んで工場生産の画一的な家に建てかえたのが原因である。それに加え、自動車の普及により、各家庭に1台の自動車はあたりまえになった。そのため駐車場が必要となり、家の前にガレージをつくらなけらばならなくなった。また、マンションやアパートを建てることによって2〜3軒の町家がまとまって取り壊され、その周りには駐車場がつくられる。これらのことが原因で町なみに穴があいたり軒の連続した水平線が寸断され、それまでの景観とは大きく異なった景観になってしまった(写真5-9、写真5-10、写真5-11、写真5-12)。

今回、実際に魚屋町通りを歩き前回の調査の時と比べてどのくらい変化したかを図にまとめてみた。図5-6は赤い部分が町家から建てかえられた建物で、青い部分が町家から駐車場に変わったことを表している。さらに1975年と1999年の連続立面図を作成し(図5-7、5-8、5-9、5-10、5-11)魚屋町通りを5つのブロックに分け比較した。もとにした図は1976年彦根市教育委員会『彦根の町なみ-旧下魚屋町・職人町・上魚屋町-』より引用し、北側をN、南側をSと表し、下魚屋町からブロックごとにI〜Vで表記しているのを踏襲した。この図からわかるように江戸期の建物で現在も残っている町家は少ない。また、現在残っている町家も空き家になっているところが多く、人が住んでいるところはきちんと手入れされているので良い状態が保たれるが、人が住んでおらず空き家となってしまったところはだんだん荒れていき人が住める状態ではなくなる。そうなると古い町家も朽ちてしまい風情のある町なみではなくなっていってしまう。

 

5-2 奥野邸の復原

5-2-1 奥野邸の内部構造

奥野邸は上魚屋町の端(キャッスルロードから入ってすぐ)にあり、その規模はこの地区で最大級のものである。現在は小児科医院を開業しているが、明治から昭和の30年頃にかけてはしょう油の製造販売業であり、江戸時代には郷宿であった(写真5-13)。

 

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写真5-13 現在の奥野邸

 

 

 

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