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現状平面についてみれば、左側部分は機能上改造されている部分があるものの、その間取りは、間口9間と大きく、3列4段型を成している。しかし、第3列目のオクザシキ・ブツマ・ナカニワは明治半ばに増築されたものである。

もとの平面構成についてみてみると、2列4段型を成し、第1列目にはミセノマ・ナカノマ・ダイドコといった生活的スペース、第2列目にはザシキがとられ、接客的スペースであった。もとのザシキは8畳で天井も高く、東壁面に床と仏壇を入れる押し入れが設けられており、ブツマとしても機能していた部屋である。ダイドコとの境は壁でしっかりと仕切られ、東隣の部屋とともに長押が廻されている。

その後、明治半ばになって、第3列目にオクザシキ・ブツマ・ナカニワ・茶室といった儀礼的空間が増築されたことにより、居住性が大きく変わった。まず、今まで間口いっぱいにミセノマがとられていたが、第3列目は茶室的空間とし、玄関とは別に露路口を設け、最高客に対するアプローチを可能にしている。2段目にはナカニワが設けられ、採光の面で不利となる部屋への景観と自然光を確保している。また、部屋が増えたことにより、ザシキからブツマが独立してとられ、仏壇をザシキから移すことが可能となっている。従って、ザシキの仏壇のあとは、違い棚を設けることができ、床の間、違い棚、書院と並ぶ正式な座敷飾りがつけられている。つまり、この第3列目が増築されたことにより、座敷の格式化がはかられ、2列型に比べて、より居住性の高い家となっている。左側半分、特に手前部分においては、改造が著しく、ミセノマ的空間であったところには、現在、事務所が作られ、土間であったトオリニワには、コンピューター室、ガレージなどが作られている。しかし、間仕切りを通ってその奥へ進むと、安居家の最大の魅力である、ダイナミックな吹き抜け空間があり、さらに奥には土蔵が2つ設けられている。

3-2-8 岡部勝家・旧福富喜一郎家

所在地 立花町2-54

建築年 昭和4年

間取り 1列4段型(岡部家)

1例3段型(旧福富家)

正面向かって左側半分の岡部家は、現当主で5代目にあたり、4代前の亀次郎氏が武士であったという。侍をやめてから、指物を習い、箱や提灯・茶碗箱などを作っていたという。次に、右側半分の旧福富家は、2代にわたって2年前まで住まれており、畳屋であったという。

江戸時代は、2軒に分割して使われており、もともとは料理屋で、旧福富家(右側半分)が座敷として、岡部家(左側半分)が勝手先として使われていたという。

まず、左側半分(岡部家)の平面構成についてみると、間口3間の1列4段型であり、6畳が2室、5畳が1室、3畳が1室とトオリニワから成っている道路に面したミセノマは、もとは土間であったが、現在では床が張られ、北壁面に押し入れが設けられている。

6畳のザシキは、床と仏壇を入れる押し入れが設けられ、後で付けられたものであるが、長押が廻されている。また、トオリニワとの境は東隣の部屋とともに、壁でしっかりと仕切られている。土間であるトオリニワを奥まて進むと6畳の離れがある。これは、昭和初期に若夫婦の離れとして建てられたものであり、ナカニワに面して縁を設け長押を付けている。

次に、右側半分(旧福富家)の間取りは、間口4間の1列半3段型の構成である15畳もあるミセノマは低い床が張られており、それにつづくナカノマは、北壁面に押し入れが設けられていたようである。10畳のザシキは、床・違い棚が付けられ、西壁面に縁が設けられている。

現在、長押は付けられてないが、もとはあったとみられる仕口が残されている。表から裏までつづくトオリニワには、天窓が設けられ、そこから採光を確保している。

3-2-9 立花町福祉会館憩の家

所在地 立花町2-45

建築年 −

間取り 2列3段型

現在、この家屋は寺木氏が管理され、立花町の福祉会館憩の家として使われている。もとは、寺木彦利氏の弟である安居浅三氏が借家を買ったもので、戦後くらいまでここに住んでいたという。ここでは、商売などはせずに、居住のみであったという。その前の居住者は不明である。

 

 

 

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