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長屋の軒裏構造は、町家のものより、むしろ一般的な見解にそっていると思われる。平屋・低長屋は軒裏構造がないものが多く、せがい構造の割合も低い。高長屋はほとんどがせがい構造である(図4-8)。建築年代でみても、せがい構造がだんだん増加していっているのに対し、腕木構造や軒裏構造なしが減少していっている。しかし、江戸期の長屋でも、町家と同様、腕木構造は少なく、せがい構造が多い。彦根城下において、町人によるせがい構造の普及の波が、長屋にも影響していたようだ。

2-3-2-7 2階後室

町家が、低町家から高町家に変化していった一番の要因は、2階の居室の発達である。町家は武士住宅と異なり、2階をもつことを許されていた。彦根の町家はたいてい2階建になっているが、2階の後ろに居室がないことが特徴である。居室がもうけられているのは前(おもて)部分だけで、それはちょうど1階のみせの間の上部にあたる。

江戸時代までは軒の低い家が標準だったので、2階の天井は非常に低かった。それは、居室には適しておらず、主に物置や使用人の居住にあてられていた。明治までは2階後室がないものが多かったが、大正に入ると2階の後ろまで居室がつくられ、2階の天井を高くとった町家があらわれるようになる。これは、高町家が低町家にかわってくる時期と一致するので、やはり高町家が主流になったのは、2階の居室化と関係があると考えられる。低町家では後室がないものは55%、高町家では15%で、高町家は2階後室がある比率が高いことがわかる(図2-15)。注意しておきたいのは、低町家に後室があるものや、高町家に後室がないものがあるということだ。これは、増築、または改造して2階の後ろに室を設けたり、低町家であったものを2階の前部分だけ軒を高くして居住性をもたせたからである。また、町家は側面がみえないことから2階後室の有無が不明のものも多い。

長屋の2階後室についても、町家と同じことがいえる。低長屋には2階後室のない家が多いが、高長屋では2階後室がある家のほうが多い(図2-6)。

建築年代から、2階後室がある長屋の数が大正から急に増えるのは、全体的に長屋の建築年代が新しいからである。また、長屋は間口が狭いため1階の居室空間が狭くなる。そこで、2階も居室として利用する工夫がうまれたことも、長屋に2階が発達した理由でもある。

2-3-2-8 塗りごめ

火災に対する防火対策として、町家の側面を塗りこめることがある。現在もそのまま残っている町家もあるが、ほとんどはトタンや板に変わってしまい、側面を塗りこめている町家は5%でわずかしかない(図2-17)。長屋も町家と同じく、側面を塗ってあるものは低長屋に2戸だけだった。もともと側面を塗りこめてあったと思われる家は、側面の母屋に塗ってあった形跡があったり、母屋をトタンで覆っていたりしている。側面がトタンの家は塗ってあった可能性がある。ふつう、町家の側面は見えないのだが、町家でも角地に建っているものは、おもてだけでなく横にも窓をつくってあるという例外もみられた。

2-3-2-9 2階壁面

町家や長屋の2階部分は、1階ほど改造が加えられていないので、2階の仕上げ方でその家の印象がおおかた決まってしまう。たとえば、彦根の本町1・2丁目のキャッスルロードは白漆喰で統一されているが、あれがもし黒漆喰だったなら、もっと重厚な町なみになっていただろう。

彦根の町家は、白い壁面のものが多く、低町家で31%・高町家で42%と、低町家と高町家ではこの白の差はあまりない。あえていうなら、低町家に土色の数が多いことである(図2-18)。土色というのは、壁を塗ったあと仕上げをしていない壁面のことである。この結果は、長屋の低長屋と高長屋の結果と似かよっていることがわかる(図2-19)。町家と長屋では、2階壁面についてはあまり差がなかったのだろうか。それは2階壁面が塗りこめてあるかどうかによって、明らかになった。

 

 

 

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