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建築年代と居住地の比較から、興味深い結果がでた。(表2-4)江戸期に長屋は少なからず存在していたのだが、武士地には全くない。しかし、明治29年から少しずつ武士地や足軽地にも長屋が建てられ、その数は増加していっている。これは彦根の人口と関係がある。幕府が崩壊して武士という身分がなくなり、武士たちはほかの土地に移ることを余儀なくされ、彦根の人口はいったん減少してしまう。そして、明治29年ごろからまた人口が増えてくるのだが、そのとき移ってきた人たちの住居が、当時武士がいなくなって空家になっていた武士地に新しく建てた長屋だったのだ。

 

2-3 町家と長屋の表構え

2-3-1 間口と軒高

2-3-1-1 間口について

町家は、江戸幕府により天下が統一されてから、全面的に専制勢力のもとに組みしかれるようになった。彦根藩も例外ではなく、元禄6年(1693)藩令によって住居について細かな規制が与えられるとともに、裏行十三間の町割がなされ、間口の規制により軒役高が規定されるなど、厳しく統制されていた。

しかし、こうした規制は厳正には守られず、町人の住生活は藩権力によって抑制をうけつつも次第に向上していった。そして、工・商の町人の間にも階層分化が進行する。家屋敷何十ヶ所、土蔵何十戸前、間口何十間の大きな屋敷に住む豪商から、二件間口の町家の商人・町人・さらには一人前の町人とはみとめられなかった借家住まいの裏店生活者といった、くらしと住宅の格差と階層分化があらわれてくる。間口は居住者の階層を表すバロメーターになっていて、間口が広い家ほど裕福な町人が住んでいたと思われる。

町家と長屋の間口の統計(図2-6)から、町家は間口が5m未満12m未満のものまでほぼ均等に分かれており、彦根でも階層分化が進んでいたことがわかる。その中間値はおよそ9m、つまり5間だとみてよい。

彦根では土地区画整理ほとんど行われておらず、また戦災にもあっていないことから、建築年代が新しい家でも敷地は江戸時代のままであるということが多い。武士居住地・足軽居住地の町家の間口で10m以上のものはそれぞれ10%と5%で極めて少ないのに対し、町人居住地では10%にのぼっている。おそらく、武家屋敷や足軽屋敷の跡地に町家を建てるにあたって、10m以上の間口をとることができなかったためであろう。長屋の間口を町家と比較する際に注意しておきたいのは、長屋は少なくとも2戸建、多くて4戸建、もしくはそれ以上のものがあるので、一棟の間口は必然的に大きくなる。そこで、一棟の間口を戸数で割った寸法で比較する。長屋の一戸あたりの間口は、5m未満と5m以上6m未満が全体の76%を占めており、7m以上はごくわずかである。反対に町家では、7m以上の間口のものが{全体の80%近くあった。長屋の間口の中間値はおよそ3間で、町家の間口の中間値と比べるときわめて狭いことがわかる。これは、長屋が町家に比べて階層身分が低いせいである。また、長屋で一戸あたりの間口が7m以上あると、少なくとも2戸建の長屋だと仮定しても一棟が14m以上になってしまい、階層身分が低い長屋にそんな広い間口をとるのは困難である。長屋の一戸あたりの間口が5mから6mに集中するのも、こうした理由があるからだ。

2-3-1-2 軒高について

調査で低町家(低長屋)と高町家(高長屋)を分類するときの視点は、見た目の印象と2階軒高の寸法である、ということは先に述べたとおりである。

軒高の寸法を1階軒高は10cmおきに、2階軒高の寸法を50cmおきに区切って調べたところ、低町家と高町家の境界は2階軒高が4m以上4.5m未満のとこであるとわかった。調査結果では寸法の測り間違いなどの理由で、若干の例外がみられたが、低町家は2階軒高が4m未満になっているものが77%、高町家は2階軒高が4.5m以上に81%と集中している。このことから、2階軒高が4m未満は低町家、4.5m以上は高町家であるといえる。

2階軒高が4m以上4.5m未満について、1階軒高との関係を調べたのが図2-7である。この軒高の寸法に低町家は全体の20%、高町家は全体の15%がはいっている。この図では、低町家と高町家の1階軒高にはあまり違いがみられない。それは、1階軒高の寸法を10cm間隔、2階軒高を50cm間隔でまとめているからで、低町家と高町家は微妙な寸法の違いが表構えのニュアンスに影響しているからであろう。

 

 

 

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