まず、建築種別で経年変化をみてみると、明治に入ってからも、町屋が各年を通じて建てられていたために、その建築様式が江戸から昭和、そして現在にまで受け継がれてきたと考えられる。また、町家と建築形式の似ている長屋も、町家より戸数は少ないものの町家と共に建てられ続けた。
それとは正反対に、武士系の塀付平屋は明治の身分制度の廃止による武士の没落と共に衰退していった。しかし、同じ武士系の流れを汲んだ新しい塀付2階建という建築が生まれ、庶民に受け入れられ広まっていったと考えられる。
また、同じ建築種別の中でも、町家、長屋の中に建築様式の変化がみられ、平屋や低町家といった軒の低い町家から、高町家といった軒の高い町家に移っていき、それに伴って町なみも移り変わってきた。
次に、身分的居住区でみてみると、明治維新直後は町人居住区には江戸時代と変わらず民家の建設は毎年行われ、その後、年月が経つにつれ武家地でも民家の建設が始まった。これも、身分制度の廃止の形響が及んだ身分の居住区と、及ばなかった身分の居住区との間に差ができたと考えられる。
武士居住区では、どの年代でみても建てられる民家の戸数が少ない。明治初期には、ほとんど民家が建てられていなかったが、明治後期に入ってから、町家と塀付2階建が建ち始めた。また、建築種別でみた町家の経年変化で、明治後期には低町家から高町家へと建築形式が変わってきており、武士居住区に建つ町家も年代の新しい高町家が多かったと考えられる。
足軽居住区でも、武士居住区と同じような移り変わりがみられる。塀付平屋と違い、明治に入ってからも江戸時代からの足軽屋敷は多く残ったものの、明治に入ってからは町家や塀付2階建が足軽居住区の主流な建築となった。また、長屋が多く建っていることもこの居住区の特徴である。町人居住区には、年代ごとに増減があるものの、ほとんど町家が建ち続けており、長屋、塀付2階建も建ってはいるが、その割合は微々たるものである。
以上のことから、武士居住区では明治初期の武士の没落と共に、塀付平屋も衰退し、その跡地に町家や塀付2階建が入りこんできた。同じ武士でも、足軽居住区では、江戸時代から建っていた塀付平屋は残存するものの、新しく建つ民家は町家や塀付2階建、長屋が多かったことがわかる。町人居住区では、明治に入ってからも建てられる民家のほとんどが町家であったが、明治後期頃から、低町家から高町家へと町家の建築形式が移行していった。つまり、同じ町人居住区でも年代の違いにより、軒の高さに違いがでてき、古い町並みと新しい町並みの違いが生まれてきたといえる。
1-4 まとめ
これまで、建築種別・身分的居住区・家屋年代のデータを用いて、残存状況、及び民家の変遷についてみてきたが、これらのデータを縮尺1/2500の都市計画図に記入してみた。
まず、地図上でみると、武士居住区の金亀町(第1郭)、町人居住区であった、本町、城町、立花町(以上、第3郭)、船町・旭町・河原町・新町・芹中町・大橋町1沼波町・元岡町(以上、第4郭)、足軽居住区であった、芹橋、芹町(以上、第4郭)・水主居住区であった・松原町(第4郭)に多く残っているのがわかる。第2郭には塀付2階建と江戸期からの玄宮園などの施設が残っている。明治に入ってからの身分制度の廃止の影響を受けた、上級武士の武士居住区の衰退、あまり影響を受けなかった町人と、下級武士である足軽居住区が存続しているようだ。
次に、居住区でみると、町人、足軽居住区に民家がよく残っていることがわかるが、町人居住区には町家が大半と長屋が少々建っており、足軽居住区には塀付平屋と長屋、塀付2階建が建っているのがわかる。
ここで言えることは、身分的居住区の種別と、建築種別の身分がほぼ合っているということである。町人居住区には町家が、足軽居住区には武士系の住宅である塀付平屋と、塀付2階建が多く建っている。これは、江戸時代の風景がある程度この両居住区でみられるということである。つまり、城下町・彦根の城下町らしさの要因は、町人居住区には町家が建ち、足軽居住区には足軽屋敷が建つといった、身分的居住区と建築種別でみた建築の身分の一致からきていると言えるのではなかろうか。