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図1-11において、明治元年については、江戸期の建物も含まれ戸数が多くグラフが読みとりにくくなるため、省略した。戸数は塀付平屋67戸、町家167戸、長屋18戸、塀付2階建16戸、その他4戸である。

これによると、塀付平屋は、江戸、明治元年には67戸を数えるも、明治初期には数軒となり、昭和初期に10数軒みられるが、全体的に衰退していったと考えられる。塀付2階建は明治全般に渡り、各年代0〜2、3軒程度にとどまっていたが、大正期から増加の傾向をたどり、昭和に入るといっそう増えるが昭和10年を境に急減している。町家は明治初期に一時的に多く建設されるが、明治後期には二桁を割り込むことになる。しかし、大正期から急増し昭和初期にピークを迎え、これ以降急減している。これは、長屋にも共通している。

これらのことから、まず、明治期までは、武士の住む塀付平屋、町人の住む町家の二つの流れが主流であった。しかし、明治維新による身分制度の崩壊の影響を受けた塀付平屋はそのまま衰退し、受けなかった町家も城下町経済の衰退から減少の傾向にあったと考えられる。また、塀付平屋に代わり、塀付2階建が大正期頃から建設されはじめ、経済の復興と共に町家も再び建設されるようになってきた。これは、長屋にも当てはまることである。

年によって数の大小はあるものの、町家はどの時代にも建てられていたため、その建築形式は衰退することなく受け継がれてきたと考えられる。逆に、塀付平屋は衰退するが、その代わりに塀付2階建という塀付平屋の流れを汲む、新しい建築が生まれ、庶民に受け入れられたと考えられる。

1-3-1-2 塀付平屋の経年変化

下の図1-12は、各年代でみた塀付平屋の建築種別の変化である。図からもわかるように、塀付平屋が明治に入ってからほとんど建てられていないことがわかる。大正後期から昭和にかけて、平入り、及び妻入り住宅が建てられたとなっているが、実際のところ、そういったところはみられず、家屋台帳の過誤かと思われる。

1-3-1-3 町家の経年変化

下の図1-13、14は各年代でみた町家の建築種別の変化と構成比である。図1-13において、明治元年については、江戸期の建物も含まれ戸数が多くグラフが読みとりにくくなるため、省略した。明治元年の戸数は、平屋8戸・低町家141戸、高町家17戸、3階建て1戸である。

図1-14もわかるように、明治初期に建てられていた町家のほとんどが低町家であった。しかし、明治後期頃から高町家の割合が増えてきたことがわかる。図1-13もわかるように、明治10年頃を過ぎたあたりから高町家の建設が本格的になり、明治から大正初期ごろになると、低町家の建設戸数をこえることになる。また、高町家が全体の町家の建設戸数の5割をこすのもこの頃である。

これは、軒高が高く、2階の使い勝手のよい高町家が、江戸・明治に多く建設されていた低町家よりも人々に好まれたと思われる。また、武家地に新しく建つ町家の中で高町家が多かったことも、高町家の割合が伸びた原因であると考えられる。平屋と3階建てについてはあまりみられなかった。

1-3-1-4 長屋の経年変化

図1-15は各年代別でみた長屋の建築種別の変化である。ここでも町家と同じ文化がみられる。明治元年では、圧倒的に低町家が多く建設されているものの、それ以降ではほとんど建てられていない。逆に、高町家は明治後期頃から徐々に建てられ始め、大正後期には建てられる長屋の大半が高町家になっている。この原因も、町家と同じで、使い勝手のよい高町家タイプの長屋が受け入れられたことが考えられる。

平屋、3階建てについては戸数が少なかった。

塀付き長屋については、年代不明のものがほとんどで考察できなかった。

1-3-2 身分的居住区別でみた経年変化

1-3-2-1 身分的居住区全体でみた経年変化

図1-16、17は各年代でみた身分的居住区別の変化である。図1-16において、江戸期の建物が含まれる。明治元年においては、戸数が多く、グラフが読みとりにくくなるため、省略した。明治元年の戸数は、武士居住区19戸、足軽居住区75戸、町人居住区176戸、水主居住区0戸、その他2戸であった。

 

 

 

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