2. 大村城下の街路構成
第2章でものべたように、中世より領主であった大村氏の城は、今富城、三城城、玖島城と移り変わってきており、玖島城が築城されたのは慶長4年(1599)である。この玖島城の築城とともに、城下町の整備が進められ、現在の玖島から本町にかけての町並みが形成されてきた。
大村藩の総合調査書『郷村記』によると、玖島城築城の際、領主大村喜前の入城とともに、大村家の親族や主な家臣に対して城下に屋敷を与えて住まわせるとあり、このときに城下町の通りが整備され、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路の五小路になった。また、この五小路だけでなく、その周りにも屋敷が建ち、岩舟、久原、日向平などの屋敷街を形成していった。その後に、さらに片町、久原の武家屋敷街の中に百人衆小路が形成されるなど形を整えていき、それまで領内各地に住んでいた家臣団が城下に集められ、各通りに屋敷を構えた。
玖島城の城下町は、大きくは五小路などの武家屋敷街と長崎街道の大村宿に分けられるが、現在でも、その通りの殆どが残っていると考えられる。
石垣・石塀については、武家屋敷と比べ、よく保存されており、駐車場などのために壊されることも少なく、門構えとしてまとまっているものが多い。
以下に、写真で石垣・石塀を記録する。