そこには医師としての私でなくボランティアとしての私の自主性とでもいいますか、いわゆるボランタリーがあると思うのです。「雪がこんなに軽いものだとは初めて知ったわ」と言われたこと、あんなにも手にした喜びが強かった。それは何なのでしょうか。私はそのあとすぐ部屋を出たのですが、あとから部屋に入った看護婦が言うには、患者さんと娘さんが涙をこぼしていたと。この方は次週に私が行ったときにはもう意識をまったくなくされてしまっていました。
先ほどの「一杯のお茶」というのもこのようなことではなかったでしょうか。これが白衣を着た看護婦もしくは病院職員が「どうぞ」といって差し上げたのでは、そんな感動は生じなかったかもしれません。もっとも普通病院ではナースや職員がお茶を出して患者や家族を迎えるなどということはほとんど見られないことですが。
病いの中にある日常のもつ意味
次のようなお答えもありました。
「節分のときの写真係でした。3年前の節分の際、廊下側と庭側の入り口から豆を持った善良の人と鬼が同時に進入し、患者さんも大喜びで豆を鬼にぶつけていました。そのときの喜んだ患者さんの笑顔が素晴らしかったのでシャッターを押しました。その方は、現像してお渡しした数日後に亡くなられました。家族の方から焼き増しを頼まれ、その際にも『もう長いこと笑ったことなんかなかったのに』とたいへん感謝されました」