治癒と癒し
フランスの外科の医者で、アンブロワーズ・パレ(1509〜1590年)という人がいます。彼の生きた16世紀という時代は、宗教的な意味でも文化的な意味でも今日大きな関心がもたれています。宗教のほうでいえば、ルターとかカルバンなどが出たころで、その後のルネッサンス運動につながっていくわけです。
パレは近代の外科を確立したといわれている人ですが、この人の残した言葉で、今でも医者にとって重要な言葉があります。「私が包帯をし、神がこれを癒し給う」というものです。包帯をするのは私かもしれない。膿を出すのは私かもしれない。しかし、最終的にそれを癒し給うのは神だという、有名かつ有能な外科医でありながら、こういう言葉を残している。この場合の、「癒し給うのは神」だという場合の"癒し"というのは、医療技術、たとえば膿があるのでそこを切開して膿を出してしまう、あるいは肺にがんがあるのでその部分をうまく取ってしまう、それを治療して、そして治癒させたといういわば人間側の、あるいは外科的な技術、その治癒というものと、パレがいっている「神がこれを癒し給う」という"癒し"の概念とはどこか違うと私は感じます。
われわれは治療する、そして治す、患者さんの側からすれば、「治療して、治してもらった」、外科の医者からすれば、「肺にあったがんをうまく取って、完全治癒に導いた」といい、また感じるでしょう。しかし、パレはそのような治癒の中にもっと謙虚に自分の働きを位置づけているといえましょう。それは宗教がかった捉え方で、16世紀の理解の仕方をいつまでも引きずっていると思う人もいるかもしれません。