河原−石鹸はご存じのように、油と苛性ソーダで出来ておりますが、合成洗剤は原料が石油ですね、だから私たちはその石油というものが、深いことは知りませんけれども、海や川に害があると、油とか、「苛性ソーダはよくないけれども、天然のもんだから石鹸の方がいいんだ」っていう素人いきの考え方で、私たちは石鹸運動とか、とにかく油を台所から流したり、洗濯のときでも、できるだけ回数を少なくするとか、適量使うとかいうふうにして、川とか海へ流さないようにしようというふうなことで石鹸運動を始めたわけなんです。
藤岡−ありがとうございます。千賀先生、人間の生活と環境の問題というのは非常に複雑なことがございまして、今、直ちに石油文明が悪いから、産業革命以来の人間の生き方がおかしいから、元に戻ろうじゃないかといっても簡単に戻れないところもございますね。このあたり、どういうふうに調整し、考えていったらいいのかというようなことでご意見賜りたいんですけれども。
千賀−本当に大変難しい問題ですよね。立松さんが"僕の仏教入門"という本を去年の10月にだされてね。読ませてもらってるんですが、その中に、お茶を一杯飲むのにもですね、アルミ缶も同時に消費しなさいと、アルミ缶でお茶を飲みますよね、お茶を飲もうとするのにどうしてもアルミ缶を買わざるえない。それを捨てざるえない、というね、そういう現代の生産、消費のシステムそのものが大きな問題になってるんじゃないかということを書かれてるんですね。全くそうだと思うんですね。昔、汽車にのると、土瓶のような土でできた、あれでね、お茶を配って、10円か5円で買いましたよね。そういう時代から今やアルミ缶でなければお茶が飲めないという時代、で、それが当たり前になってるんですね。便利で、それは車もそうですね、100m先の店に買い物に行くんでも車で行かなければいけない、そういう自分の生活を、もちろんそれを一足飛びにやめろというわけにはいきませんけれども、そういう生活の異常さみたいのが、どうしたら気付くことができるんだろうか、今、河原さんの22年間の生活学校なんかはそういうことに気付いていくプロセスのひとつなんだろうと思いますけれどね。たいへん、難しいですね。
藤岡−立松先生、今の件はどうでございましょうか。
立松−突然、ふられたんでちょっと…流れが変わるかもしれないんだけど、井元さんの話が僕の考えていることと結びつくことがちょっとあって、僕はまあ、あちこち行ってはいますが、だいたいしょっちゅう行っているところというのは2カ所なんですね。ふるさとの宇都宮、栃木県と知床です。知床は漁業、漁師の友達もたくさんおって、去年は鮭、鱒がダメだった。水温が高かったからかよく分かりませんけれど、あまり捕れませんでした。値段がよかったからまあ、いいってことになるんだけども。