ア 設立の経緯
(ア) 地元の運動
会津地域には、高等教育機関として、昭和26年(1951年)に開学した県立会津短期大学があるのみで、4年制大学がなかったため、その誘致運動が昭和40年代から続けられてきた。
昭和42年5月に会津総合開発協議会において県立会津短期大学の4年制大学への昇格が取り上げられたのが最初と言われており、その後、以下の組織により大学の誘致が積極的に行われてきた。
昭和45年1月、会津地域の民間人による「会津に国立大学をつくる会」が設立され、この組織は、国立大学誘致のため、県や文部省に盛んに陳情活動を展開した。しかし、その後経済財政状況は大きく変わり、従来の国立大学誘致運動から、国・公・私立にこだわらず、4年制大学の誘致運動として展開していくことに方針を転換し、昭和59年3月には、会の名称も「会津に大学をつくる会」に改めた。
一方、地元の会津若松市では、昭和45年8月、地元住民の運動に呼応し、市長、同市議会議員などによる「会津若松市大学誘致促進協議会」を設置した。そして昭和53年11月には、大学教授、市長、助役等からなる「会津若松市国立大学設置準備委員会」を設置した。
しかし、昭和56年、臨時行政調査会の答申の中で、大学学部等の新増設を原則として見送ることとされたことから、会津地域における国立大学の誘致は、その実現性が困難となった。このため、昭和59年4月、会津総合開発協議会、会津若松市大学誘致促進協議会、会津に大学をつくる会による合同協議を開催し、今まで進めてきた国立大学の誘致に幅を持たせ4年制大学の誘致とすることに加え、会津地方で唯一の高等教育機関である県立会津短期大学の拡充整備についても、働きかけていく旨を協議した。
(イ) 設置までの具体的な流れ
県においてはこの当時、県の長期総合計画の見直し作業を進めており、今までの会津の継続的な運動や県の長期的な県土の発展などを総合的に考慮したとき、会津地域の高等教育機関の整備が重要であるとの観点から会津短期大学の拡充整備が初めて新計画に盛り込まれることになった。この計画が発表されてから、直ちに、地元から県に陳情がなされた。
明けて昭和60年2月、会津若松市促進協議会は意見協議の場として「高等教育懇話会」を設置した。