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そして、この憲法制定によって、1975年、憲法制定のための議会として設置された最高人民議会はその任務を終え、かわりに憲法により立法機関として国民議会が設置されることになった。1992年12月、初めての国民議会議員選挙が行われ、154名が立候補し、85名が当選した。

 

5 経済

 

ラオスの労働人口は全人口の55%であり、そのうち第一次産業従事者が139万人で7割を占める。残りの1割を第二次産業従事者、2割を第三次産業従事者が占める。いわゆる農業国で工業はあまり盛んではない。主要農産物は米(ラーオ族の主食はもち米であるため、特にもち米)であり、その他、トウモロコシ、芋類などが生産されている。商品作物のなかではボロウェン高原を中心としたコーヒー栽培が最も盛んである。しかし、灌漑設備などの農業インフラの整備は遅れており、天候の影響を大きく受けるため、収穫量は不安定である。

森林面積が国土の約半分であり森林資源は豊富であるが、木材が外貨を稼ぐ主要輸出品となっているため近年伐採が進んでいる。毎年国土面積の1%に当たる森林が消失していると言われる。

その他、ラオスの主要な輸出品は電力である。電力は主としてタイに輸出される。木材はタイ、日本などに輸出される。主要な輸入品はトラックや燃料、セメントなどであり、国内で工業が盛んでないためほとんどの工業製品を輸入に頼っている。一人当たりの国民総生産は336ドル(1994年)である。

1986年の人民革命党第4回党大会で決定されたチンタナカーンマイ政策の継続により、ラオスは1990年代、経済の自由化・開放化への歩みを一層確かなものとした。

ラオスの国家財政は歳入の約半分を外国援助に依存しており、これまで、そのうちの55%をソ連などの社会主義国が占めていたが、1990年末には、その60%を西側諸国からの援助が占めることになった経済の自由化・開放化の道を歩み始めたラオスは、ソ連、東欧からの援助削減の危機をこうして乗り切った。さらに、国内歳入の確保にも努め、1990年末にはインフレ率が前年の54%から15〜16%に低下し、経済成長率も6〜7%に達した。

1992年の経済成長率は7%であった。政府は年7〜8%の安定した成長を目指すため、援助によりインフラを整備し、工業、サービス部門に外資を導入するという戦略を取った。そのため、財政、貿易赤字を外国からの援助が埋めている状態ではあるが、外国からのダムや道路建設など、大型投資が目立つようになった。

1995年に、キープ貨の下落から経済成長率は伸び悩んだが、1996年になると、農業生産の成長率が伸びたこと、外国からの援助の増加などの影響で、経済成長率は7.5%となった。しかし、1997年のアジア通貨危機以降、経済的に大きくタイに依存しているラオスでは、キープ貨の大暴落、物価上昇、投資の減少などが起こり経済成長の速度は大幅に鈍化している。

 

 

 

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