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 神国丸(しんこくまる)

 昭和12年の第70回帝国議会で成立した優秀船舶建造助成法が同年4月1日に実施され、第2種船の部では油槽船8、貨物船8、計16隻の助成適用が決定、油槽船部門で申請した神戸桟橋は助成命令107号を取得し、海軍軍部の指導により大型高速油槽船1隻を神戸川崎造船所に発注した。翌13年10月25日に起工し14年12月13日に進水となり神国丸と命名されたが、当時川崎造船所では海軍の新鋭空母瑞鶴(ズイカク)を建造中で、機密保持のため遮蔽覆を張りめぐらし最優先建造を実施していたため、民間船の神国丸は起工から進水まで13か月半かかり、瑞鶴完成後は一転し突貫工事で蟻装が行なわれ、同15年2月28日に竣工したのである。
 この神国丸は川崎型高速油槽船と呼ばれ10隻姉妹船中の9番船として竣工したが、この船型は戦時標準船一TL型油槽船の原型で、昭和7年第1次船舶改善助成法の適用を受けて飯野商事が神戸川崎造船所に1万屯級油槽船を発注した時、当時多数の海軍艦艇を建造して実績を持つ同造船所が、海軍艦政本部の指導により、高速力で高性能な大型油槽船の設計を研究開発し、飯野商事の東亜丸が一番船として同9年6月に完成した。続いて同年12月飯野商事は更に政府の建造助成を取得し二番船極東丸を建造、有事の際に海軍の給油船として活躍出来る機能を備えていた。更に神戸川崎造船所が海軍の示唆(シサ)により翌10年に傘下の川崎汽船向け同型の建川(タテカワ)丸を建造したが、標準型船では略(ホボ)完壁の域に達して、当時油槽船業界の高い評価を受け川崎型高速油槽船と呼ばれ、世界の最高水準油槽船なりと、内外海運界に喧伝された。
 その後昭和11年6月竣工の同型船、山下汽船の日本丸から、同18年9月の日東汽船久栄(キュウエイ)丸まで10隻建造され、神国丸は同15年2月に9番船として誕生した。
 完成後は直ちに川崎汽船の委託運航船となり同型社船の建川丸と共に、北米加州から日本向け海軍燃料油輸送に就航したのである。船会社としては珍らしい社名の神戸桟橋株式会社は、明治17年11月15日関西の政商実業家、五代友厚(ゴダイトモアツ)、大阪財界の代表、田中市兵衛(イチベイ)等が資本金16万円で神戸港に於いて鉄製桟橋及び荷揚場、上屋等を建設したのが始まりで、明治42年に鉄道桟橋が政府に買上げられ、その後阪神間の貨物輸送、石炭輸送、曳船業及び倉庫業を手がけて増資をくり返し、大正5年に資本金を一挙に600万円に増資し、本格的に海運業界に進出、忽ち覇を唱える迄に至った。
 神国丸は太平洋戦争開戦前の同16年8月18日海軍に徴傭され、同型の極東、東邦、東栄、国洋、健洋及び日本丸と合計7隻同時に連合艦隊の機動部隊附給油船となり、太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃に参加、その後蘭印各地の進攻や印度洋セイロン作戦、珊瑚海(サンゴカイ)、ミッドウェイ、ソロモン海戦等にも機動部隊に随伴して活躍した。
 昭和18年末から米軍の反撃が激化し翌19年2月1日にはマーシャル群島で橋頭塗を確保し、次の目標を難攻不落と誇るトラック基地に向け、真珠湾報復の悲願を込めて2月17、8日の2日間に渡り徹底的な大空襲を行なった。
 米軍は空母9隻、戦艦、巡洋艦等38隻の大機動部隊で、一気に日本艦隊主力との大決戦にと挑(イド)んだが時既に日本海軍連合艦隊はその前日パラオと横須賀に移動した後で、基地には軽巡と小艦艇が10隻、油槽船10隻、輸送商船が26隻在泊中で2日間の大空襲で完膚なき迄に叩かれ潰滅した。その中に船齢僅か4歳の神国丸も含まれ、置き去りにされ全滅となった商船隊32隻、20万総屯は今次大戦中一か所の戦闘で受けた被害の最大と記録されている。

松井邦夫
関東マリンサービス(株)相談役

 

 

 

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